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櫻木みわさんの読んできた本たち 多和田葉子・須賀敦子・米原万里…越境する作家を読みふけった海外時代(後編)

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「タイに惹かれて」

――大学時代、インドに行ったのですか。

櫻木:はい。夏休みに1か月くらい旅しました。インドは『深夜特急』に出てきたカルカッタとバラナシに行きました。一人旅でしたが、大学の友達がインドで映画を撮りたいと言っていて、現地で合流してちょっと手伝ったりしました。

――どういうルートで行ったのですか。『深夜特急』と同じルートとか?

櫻木:同じルートではなく、一番安い航空券だったタイのバンコク経由のタイ航空の飛行機をとりました。バイト代を貯めて、初めて一人で行った旅行だから憶えているんですけれど、10万円は切っていました。9万幾らかでした。

 それで、トランジットでバンコクで何泊かしたんです。タイについては何も調べずに行ったので、こんな国なんだと思って。その時にすごくタイに惹かれたんですよね。インドも楽しかったんですけれど、タイが好きになった旅でした。

――それがはじめての海外旅行だったのですか。

櫻木:いえ、中学生の時に語学研修などでアメリカやカナダには行っていました。高校生の時は、友達がポッキーのCMの懸賞で旅行を当てて、イギリス返還前の香港に一緒に連れて行ってもらったことがありました。その頃、ポッキー四姉妹のCMがあったんですよね。ポッキーを買って応募すると四姉妹と反町隆史さんと香港豪華旅行が当たるというのがあって、友達が反町さんが大好きで応募したら当たったんです(笑)。日本経済がギリギリ豊かな時代でした。なので海外旅行の経験はありましたが、一人旅はインド旅行がはじめてでした。

――学生時代のうちに、タイにはまた行ったのですか。

櫻木:タイにも行きましたし、タイを拠点にしてカンボジアに行ったりラオスに行ったりもしました。

――旅に本は持って行っていましたか。

櫻木:はい。それでいうと、学生時代に知り合った南部タイ出身の友達が結婚式のために車で帰省するというので、結婚式を見たいから連れていってほしいとお願いしたことがあったんです。その時に持っていったのが、モームの『月と六ペンス』新潮文庫の旧版で中野好夫さん訳でした。ずっと日本人にも会わないし日本語を話さない旅をしている時に『月と六ペンス』を読んでいたら、あれはタヒチに移り住んだ画家のゴーギャンがモデルの話ですが、生まれる場所を間違える人もいる、と書かれている箇所があって。自分の知らない、本来生まれるはずだった場所への憧れを胸に秘めて暮らす人がいて、そういう人は自分の場所を求めて世界中をあちこちを行き、偶然その場所にたどり着くこともある、というようなことが書かれていて、それを読んだ時、私にとってその場所はタイかもしれないって思いました。

――実際、卒業後、タイに移住されていますよね。どういう経緯だったのでしょう。

櫻木:学生時代、『バンコク発「日本人、求ム」』というタイで働いている日本人へのインタビュー集を読んで、自分もタイで働けるかもと思ったんですよね。これも学生時代の話ですが、空港で高野秀行さんの『極楽タイ暮らし』を軽い気持ちで買って飛行機の中で読んだら、高野さんがチェンマイで日本語学校の先生として働いていた頃の体験が書かれてあって、軽薄そうなタイトルだけれど文章が素晴らしくて。この2冊の本から、タイで働くという選択肢があるということを学んでいたんですよね。

 今まですっかり忘れていたんですけれど、就活は講談社しか受けていなくて、二次面接で「一個しか受けてないなんて落ちたらどうするの」と言われて「タイに行きます」って言ったんです。そんなこと言う人採りたくないよなと思うし(笑)、実際そこで落ちたんですけれど。なので、就活しながらもタイに行こうって思ってたんですね、きっと。今思い出しました。

 そこから1年間バイトしてお金を貯め、タイに行きました。タイ語学校に通いながら、日本人の実業家の家で、4人兄弟の国語専門の家庭教師に雇われて週5で通っていました。その子たちはインターナショナルスクールに通っているので、漢字の勉強に興味ないんですよ。学校の課題と関連するなら学ぼうとするんだろうけれど、インター行っているので漢字を憶える必要がないっていう。あまりにやる気がないので、筒井康隆さんの『七瀬ふたたび』の話をしたり、自分が子供の時好きだった『クレヨン王国の十二か月』の読み聞かせをしたりするところから始めたら、その子たちもだんだん本が好きになって勉強するようになりました。筒井さんと、福永令三さんにはお世話になりました(笑)。

 その後、老舗の日本語情報誌のエッセイコンテストに応募したら大賞をもらい、それでバンコクの日本語メディアの人たちと知り合って、仕事をもらうようになりました。

――実際に長期住んでみて、やっぱりタイは良かったですか。

櫻木:良かったです。その頃にできたタイ人の友達とは今でも仲がよいし、タイで出会った日本人や他国の友人たちとも、定期的に会っています。『コークスが燃えている』に出てくる、主人公の親友の有里子さんは、タイで出会った友達をモデルにしています。フランス人の元夫ともタイで出会いました。タイから与えてもらったものはすごくたくさんあります。

――どのくらいの期間バンコクにいらしたんですか。

櫻木:働いていたのは3年間です。その後は別の場所に住んで、時々立ち寄っては断続的に仕事をしたりしていました。やはりバンコクは中継地なので、なにかと行くことが多いんです。

――海外暮らしの間、日本語の読書はできていたのでしょうか。

櫻木:その頃はまだ電子書籍もないので、すごく日本語の活字に飢えていました。誰かが雑誌や新聞をくれると、もう宝物のように喜んで読んでいました。それと、日系の書店に行ったり、たまに帰国した際に本を買って、何回も繰り返して読んでいました。

 海外にいる時に本当に好きで読んでいたのは、越境している作家が多かったですね。多和田葉子さん、須賀敦子さん、米原万里さんとか。海外の作家でも、学生時代に読んで好きだったアゴタ・クリストフやクンデラも越境している作家なので、もとからそうした作家が好きだったのかもしれませんが。

――多和田葉子さんはドイツ在住、須賀敦子さんは長年イタリアで暮らした方だし、米原万里さんは少女時代にプラハのソビエト学校でロシア語を学んだ方ですよね。アゴタ・クリストフはハンガリーからフランスに亡命してフランス語で『悪童日記』を書いているし、クンデラはチェコからフランスに亡命している。

櫻木:多和田さんは『容疑者の夜行列車』がすごく好きで繰り返し読んでいます。あの小説にはインドも出てきますよね。それと、『旅をする裸の眼』。『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』という随筆も、何度も読んでいます。

 須賀さんのエッセイは『ミラノ 霧の風景』や『ヴェネツィアの宿』など、ひととおり読んだと思います。静かで硬質な文章と、市井の人に対する眼差しに惹かれました。須賀さんが翻訳している、アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは...』も、とても好きです。

 米原さんは、小説の『オリガ・モリソヴナの反語法』を惹き込まれて読みました。

――バンコクのあと、生活拠点はどのように変わったのでしょうか。プロフィールには〈タイ、東ティモール、フランス滞在などを経て〉とありますよね。

櫻木:タイに3年間住んで、その後に東ティモールに行きました。タイで出会ったフランス人から、東ティモールに赴任するので一緒に行ってくださいと言われたんです。その頃の私は朝から晩まで日本語情報誌の仕事をしていて、そろそろ小説を書きたいのに全然時間がなくて。そのことをフランス人の彼も知っていて、「自分と来たら小説に専念できるよ」って。きっといい小説を書けるよと言われて、一緒に行くことにしました。

――東ティモールが独立した後ですよね。

櫻木:独立して10年くらいのタイミングだったと思います。

――言語はどうされていたのかなと。

櫻木:まさにそれが東ティモールで孤独だった理由でした。タイではタイ語学校に通いましたし、もちろんタイにも方言があるんですけれど、一応みんなとタイ語で話せたし、外国人とは英語でコミュニケーションできたんです。でも当時の東ティモールは国内でも言語が断絶していました。昔インドネシアに占領されていた時代の人はインドネシア語を話し、独立後、若い世代は学校でポルトガル語を公用語として習っている。一応、共通の言語としてテトゥン語という言葉があるんですが、それは首都でしか通用しなくて、地方にいくとそれぞれまったく違う言葉で喋っている。国民も言語で分裂していた時期で、英語が分かる人も少なくて、地元の人となかなかコミュニケーションがとれないことが自分にとってすごくストレスでした。この国のことを知りたいのに、自分が分厚いガラスに隔てられている感じでした。パートナーは外務省で働いていて、インドネシア語が堪能で地元の人ともコミュニケーションがとれていたので、すごく孤独を感じました。

――読書はいかがでしたか。

櫻木:読書は続けていました。彼も本が好きで、村上春樹を読んでいたりして。私もフランスの作家ならデュラスとかが好きだったし、彼と本の話ができたのはよかったです。まわりはウェルベックを好きな人が多かったんですけど、彼は好きではなく、「ウェルベックとディナーすることになったら、どんなに素晴らしいワインがあっても行かない」と言ってて、そんな物言いも面白かった。フランス人たちと交流したことで、彼らとの話題に上がることがあった谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』やロラン・バルトの『表象の帝国』を読み直しました。デュラスもあらためて読みたくなって、『戦争ノート』を探して買いました。

 ただ、本当に日本語を使わなくなったことでも孤独を感じていたので、NHKワールドをよく見ていたんです。当時、BS NHKで本を紹介する番組をやっていたんですよね。中江有里さんが司会をされていて...。

――「週刊ブックレビュー」ですね。あれはいい番組でした。

櫻木:それです。あの番組が私の心のよすがでした。そこで紹介された面白そうな本はメモしていました。日本に帰ったら買おう、って。
東ティモールには4年くらいいましたが、その間も、時々タイに行って仕事をしたり、日本に帰ったりもしていました。

 気候も風土も違う場所で繰り返し読んだ本は、今でも記憶に残っていますね。大江健三郎さんの『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』や『「自分の木」の下で』がそうです。また大江さんの話になりますが、尾崎真理子さんがインタビューをされた『大江健三郎 作家自身を語る』は、表紙の大江さんの写真、尾崎さんの質問、大江さんの語り口、どれもが好きで、長い旅に行くときは持って行ってしまう一冊です。

 その後、彼が次はフランスで働くことになりそうだというので、フランスに渡って準備をしていたら、東京に赴任になったので帰国しました。それが30代前半の頃です。彼に今度いつフランスに赴任になるか分からないので今のうちにフランス語を勉強しておいてと言われ、フランス語の学校に通っていました。

――語学の勉強は得意なほうですか。

櫻木:いえいえ。本当に語学の才能のある方っていらっしゃるじゃないですか。自分は全然です。

 でも、タイ語学校に行った時はすごく楽しかったです。タイ語って、お腹が痛いっていう言葉が6種類くらいあったりして、それが面白かったし。日本語に対するいろんな発見もありました。日タイの通訳をしている友達に「日本語って自然に対する言葉がたくさんあってすごいね」って言われたりしましたね。「木漏れ日って言葉はタイ語にはないんだよ」とか。

「SF創作講座に通う」

――帰国してからは、お仕事とかは。

櫻木:彼がまたいつどこに赴任するか分からない状況でしたし、フランス語を勉強しなければいけないので、仕事もできなくて。

 言語って、筋肉と同じでずっと使わないでいると衰えるんですよね。東ティモールでずっと日本語を使わずにいたら、自分の日本語が衰えていたんです。それに、せっかく日本に帰ってきたんだから日本語で文学とか小説の話をしたいと思うようになりました。その頃ちょうど東浩紀さんの『クォンタム・ファミリーズ』が三島由紀夫賞を受賞して、読んだらすごく面白かったんです。東さんは当時早稲田の大学院で教えていらしたので、社会人入学して東さんに習いたいなと思って説明会に行ったら、「ちなみに東さんは今年で辞めます」と言われてガーンとなって(笑)。そうしたら、東さんがゲンロンカフェを開いたんですよね。それでゲンロンカフェに通うようになり、ゲンロン大森望SF創作講座に第1期生として入りました。もちろん小説を書きたかったし、まずは日本語でいろんな本の話を思う存分したい、という気持ちがありました。

――つまり、SFを書こう、というわけではなく。

櫻木:そうなんですよね。東さんに「SFを知らなくても入れますか」と訊いたら「SFを50冊読めば書けるようになるよ」と言われ、それじゃあ、と思って入りました。でも入って半年はいろんな人に「あなたの書くものはSFじゃない」って言われ続けました。

――50冊読んだのですか。

櫻木:あの、私、あちこちで「東さんは50冊読んだら書けるようになると言ってたけれどそんな簡単じゃなかった」と言っちゃったんですけれど、考えてみたら50冊は読んでないかも、ということに最近気がついたんです。東さんが正しいのかもしれません(笑)。でも本当に、SF講座にはすごく感謝しているんです。まず、素晴らしいSF作品に出合えたこと。それと講座説明会の時に東さんがおっしゃっていたんですが、SFファンダムは特殊で、書き手のことをすごく大事にして、ずっとその人のことを追ってくれたり、待ってくれたりするって。そのSFファンダムの人たちに知ってもらえたことはすごくありがたかったなと思っています。

――素晴らしいなと思ったSF作品は。

櫻木:飛浩隆さんの『自生の夢』は、本当に美しい文章とSFというものの組み合わせが素晴らしくて。小川哲さんの『ゲームの王国』も講座がきっかけで読みましたが、カンボジアについて、外からじゃなくて中から書く小川さんはすごいなと圧倒されました。この2作は日本SF大賞の受賞作でもあるのですが、その翌年の受賞作である山尾悠子さんの『飛ぶ孔雀』も文章とイメージの力にうっとりしました。小川さんは、『嘘と正典』の表題作も好きです。歴史改変SFとしても見事なのですが、市井の個人の高潔さが書かれているところが。

――講座はどのような内容で、どんな課題が出るのですか。

櫻木:毎月いろんな作家と編集者の方が講師として来てくださって、作家の方が出したテーマであらすじを提出するんです。そこから作家と編集者と大森さんが「このあらすじの小説を読んでみたい」と選んだ3つだけが実際に小説を書いて審査してもらえるというシステムです。

 私があらすじを選んでもらったのは2回だけで、それぞれ宮内悠介さんと円城塔さんが講師だった時でした。お二人ともSFも純文学も書かれている作家ですよね。いろんな方が来てくださったから選んでいただけたと思うんです。SFって懐が深いなと思うと同時に、小説は読む人によってまったく評価が違うんだなとも思いました。それが小説の魅力なんですよね。

――その後、第1回ゲンロンSF新人賞最終候補作となった「わたしのクリスタル」を「夏光結晶」に改題、同作を含めた短篇集『うつくしい繭』が2018年に刊行されてデビューされますね。

櫻木:私は第1期生だったんですけれど、私の同期には、小川哲さんが天才だと言っている高木ケイくんという人がいて、その時に受賞したのはその高木くんなんです。高木くんは寡作だし自分でアピールしないんですけれど、本当に素晴らしい書き手なんです。高木くんの作品は『Sci-Fire』という講座生有志の同人誌や、大森望さん編集の『ベストSF 2022』などに入っています。第2席はすでに新潮新人賞も獲られていて、いま現在は「破滅派」という出版社も立ち上げておられる高橋文樹さん。私は3番目で何の賞にも入っていませんでした。ただ、編集者投票というのがあって、そこで1位だったんですね。その時いらしたのが講談社の編集者の方だったんですが、その方は私が「うつくしい繭」の実作を出して選ばれた時にもいらしていたんです。「うつくしい繭」の時は、父が余命宣告を受けて福岡に帰ったりして、ちゃんと最後まで書き切れていないものを出してしまったんです。ずっと「あなたの書くものはSFじゃない」と言われ続け、はじめて選んでもらえたのに。それは後悔していたんですけれど、その編集者の方も気にしてくださっていて、「最後まで書いたものを読みたいから一回書いてみてくれませんか」と声をかけてくださったんです。それで最後まで書いて見ていただいたら、「これ本にしたいと思います」と言ってくださいました。

 父はその間に亡くなってしまったんです。父も文学が好きで、若い頃は自分も小説を書きたいと思っていた人だから、私のことは応援してくれていたし、もし本の刊行を知ったらいちばん喜んでくれたと思います。

――作品集『うつくしい繭』は東ティモールやラオス、南インド、九州・南西諸島など各地を舞台にされていますよね。そこにSF要素が入ってくる。いろんな国を書くという意図が最初からあったのですか。

櫻木:まったくなくて。やっぱり自分のことってよく分からないものだなと思うんですが、最初、SFを書いてもずっと落とされていた時に、他の受講生の子たちが「せっかく海外に住んでいたんだから、そういうところから書いてみたら」って言ってくれたんです。それで書くようになりました。

 自分は、みんなそんなに海外のことに興味ないでしょ、と思っていたんですよね。東さんにも、私が「フランス人のパートナーがまた海外赴任するんだけれど、一緒に行くかSF創作講座を受け続けるか迷っている」と相談したら、「これからデビューして仕事をしていきたいんだったら東京にいたほうがいいでしょ」と言われましたし。そうだよねと思って「じゃあ離婚します」っていって離婚したんですよね私。

――え。元夫の方についていくより、創作を続けたい気持ちのほうが強かったのでしょうか。

櫻木:今だったら両方できるかもしれないんですけれど、その時は一人でやってみたい気持ちがあったんだと思います。彼は素晴らしい人で、いろんな経験をさせてもらいました。周囲からは「本当に素敵な方ですね」と言われていました。なので、離婚すると言ったら親にも友達にも「どうして」ってすごく言われました。母には「優しさって人間にとっていちばん大事なことよ」と言われました。「彼にはそれがある」と。でも、その時はよく分かっていなかった。自分が幼かったんだと思います。

 その後、一人で日本で生きるって大変すぎると学んでいきました。みんなが言っていたように彼が稀有な人だったんだということも分かりました。自分に分かっていないことがたくさんありました。最初から分かっている人も多いと思うのですが、私はそうやって実際にぶつからないと分からないから、一人になってようやく得心したんです。そしてそれを知ることは私に必要なことだったんだなって思います。

「礎となる本たち」

――その前後、そしてプロの作家となってからは、どのような読書生活を?

櫻木:プロになる前に読んだ本ですが、チョ・セヒさんの『こびとが打ち上げた小さなボール』は本当に胸が震えて、大切な本になりました。斎藤真理子さんの訳ですね。

 私の場合、作品を書くごとに、ひとつ礎になるような作品がある感じです。書肆侃々房さんから出ていた文学ムックの「たべるのがおそい vol.7」に「米と苺」という短篇を書かせてもらったんですが、それはハン・ガンさんの『すべての、白いものたちの』をモチーフにして書いています。これも斎藤真理子さん訳ですよね。

『うつくしい繭』の中の「苦い花と甘い花」は、アンソニー・ドーア著、藤井光さん訳の『すべての見えない光』が頭にありました。「夏光結晶」は江戸時代に日本を訪れたイギリス人の海洋学者が出版した洋書があって、それをもとに書いていきました。その洋書は、国会図書館と、あと東京海洋大学にあるんです。東京海洋大学の図書館は部外者でも借りることができるんですけれど、触れたら紙がサラサラッとこぼれていくぐらいの古書なんですよ。それを貸し出してくれることにびっくりしました。国会図書館のその洋書は、満洲鉄道とドイツの商社の蔵書印が捺されていたんです。どういう変遷があったのかと思いますよね。物体としての本の凄みみたいなものを感じました。

――その後発表された『コークスが燃えている』でも『カサンドラのティータイム』でも作中に実在の本が登場しますね。『コークスが燃えている』は、筑豊の炭鉱町出身で、今は東京で非正規の校閲の仕事をしている女性が、40歳目前で思わぬ妊娠をしてひとりで産む決心をするのだけれど...という話です。

櫻木:『コークスが燃えている』を書いている頃は、石牟礼道子さんの『苦海浄土』や、作中にも出てくる井手川泰子さんの『火を産んだ母たち』という本を繰り返し読んでいました。

――『カサンドラのティータイム』では、東京で人気スタイリストのアシスタントを務めていたのに仕事で知り合った男性に思わぬ落とし穴に突き落とされる女性と、琵琶湖の湖畔で暮らし、夫からのモラハラになかなか気づかない女性が登場します。作中でマリー=フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメント』という本に言及していますね。

櫻木:『モラル・ハラスメント』はあの小説を書く際にとても重要な本でした。それと、上野千鶴子さんと鈴木涼美さんのやりとりをおさめた『往復書簡 限界から始まる』もその頃に読んでいました。書き終わってからも、この書き方でよかったのかなということをずっと考えていて、その時に読んだのは小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』や、信田さよ子さんと上間陽子さんの対談集『言葉を失ったあとで』、スティーブン・ピンカーさんの『心の仕組み』などです。『言葉を失ったあとで』は性被害の話なので『カサンドラのティータイム』とは文脈が違うんですが、信田さんが中立であろうとすると加害者のほうに寄ってしまうという話をされているんですよね。それはまさに自分が『カサンドラ~』で書いたことに思えて。

――確かに。主人公の一人、未知が夫の心無い言動を辛く思って共通の知人に相談しても、「フェアでいたいから」と言ってちゃんと聞いてもらえず、彼女はより精神的に辛い状態になっていきますね。

櫻木:フェアでいたいからと言うこと自体が、すでに加害者の側に立っているんですよね。被害者の話を聞く時は、本当に被害者の言葉を信じるよという気持ちで訊かないと、「フェアでいたい」などと言われると、被害者はもうそこで話せなくなってしまうということを信田さんが語られていて、それは本当に身に沁みたというか。

――『カサンドラ~』は、モラハラの状況だけでなく、被害者が「自分が悪い」と思ってなかなかモラハラだと自覚しないことや、周囲に相談しても軽くあしらわれてしまいがちな実情を描いている点が秀逸だと思います。カサンドラはギリシア神話に登場する女性で、何を言っても誰にも信じてもらえなくなるんですよね。実際にカサンドラ症候群というものもあって、参考文献に岡田尊司さんの『カサンドラ症候群 身近な人がアスペルガーだったら』という本も挙げられています。書きたいテーマとしてあったわけですね。

櫻木:それは人がもたらしてくれるというか。カサンドラ症候群が、自己愛性パーソナリティーの人の周囲でも起こり得るというのは、岡田先生の本で知りましたが、自己愛性パーソナリティーについて教えてくれたのは、海外の友人でした。むかしタイで一緒に働いていたイタリア人の友達で、今は研究者をしている人なのですが、私が身近な人の言動で自分の心がこわれそうになっていると、そのときの状況を話したら、「ナルシスティック・パーソナリティー・ディスオーダーについて調べてみて」と言ってくれたんです。それをキーワードに調べていったら文献に出合えた、という感じでした。

――それと、さきほどの『限界から始まる』ですが、この連載で少し前に高瀬隼子さんにご登場いただいた時、高瀬さんが櫻木さんに薦められて読んだとおっしゃっていて。高瀬さんと交流があるのですね。

櫻木:はい。高瀬さんの家に泊めてもらったり、高瀬さんが私の住む沖島に来てうちに泊まってくれたこともあります。

――創作講座でもいろんな方との交流があったわけだし、作家仲間は多そうですね。

櫻木:高瀬さんや李琴峰さん、古川真人さんや中西智佐乃さんたちと、会ったり、オンラインでよく話したりしています。創作講座で一緒だった方たちもたくさんデビューしているし、その人たちの作品も好きです。例えば麦原遼さんは、発想や言葉の使い方が独特で魅力的です。麦原さんとは「海の双翼」というSF短編を共作して、『アステリズムに花束を』というアンソロジーに収録されました。

――その後、創作とは関係なく、読んですごく好きだった作品はありますか。

櫻木:これもある種、越境文学になるのかもしれませんが、韓国系アメリカ人のミン・ジン・リーの『パチンコ』はすごくよかったですね。四世代にわたる在日コリアン一家の話です。作家だと、ナイジェリア出身で渡米したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが好きです。『半分のぼった黄色い太陽』や『アメリカーナ』。エネルギーがあって、くぼたのぞみさんの翻訳も生き生きとして。『アメリカーナ』は人にもプレゼントしました。

 それと、インド系アメリカ人のジュンパ・ラヒリも。ラヒリは『停電の夜に』が有名だと思いますが、私は彼女がイタリアに移住してから書いた『べつの言葉で』というエッセイと、イタリア語で書いた『わたしのいるところ』が大好きです。ひとりで知らない街を歩いている感じ、ひとりでノートになにかを書きつけている感じに、自分も小説を書きたくなる。手元に持っておきたくて、島に移り住むときも持って来た本です。

 他に日本の小説家だと、金原ひとみさんと川上未映子さんはデビュー作から全部読んでいます。古谷田奈月さんも、小説が凛としていて好き。他の同時代の作家も、好きな作品がいっぱいあります。

――今は琵琶湖の沖島にお住まいですよね。1日のタイムテーブルって決まっていますか。

櫻木:沖島の文化や生活を学びたいと思っていて、島の方たちもそれを知ってくださっているので、「今日はこういう行事があるよ」とか「今日はこれを作るよ」とか教えてくださるんです。それに出かけていると予定がどんどん埋まってしまう感じです。

『カサンドラのティータイム』でも琵琶湖湖畔の町を書きましたが、もう一度この周辺を舞台にしたものを書きたいと思っています。

――書き上げたら別の場所に引っ越します?

櫻木:今後、ここを拠点にするのか、全然違う土地に行くのかの二択で本当に迷っています...。

――今後の刊行予定は、その琵琶湖周辺を舞台にした小説になるでしょうか。

櫻木:それはまだ、書きたいと思っているだけなんです。今後の刊行予定としては、双葉社から、日本のいろんな土地を舞台にした短篇集が出る予定です。

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