前奏が流れるだけで、心のやわらかいところがキュウッとなって、こみあげてくる音楽がある。涙が流れることが、なぜか嬉しくなる。わたしにとってそれは、武田鉄矢さんが作詞した「映画ドラえもん」の主題歌たちだ。
1990年代に子どもだったわたしは「映画ドラえもん」に夢中だった。母がゼイゼイいいながらこぐ自転車の後ろに乗り、隣町のレンタルビデオ屋まで連れていってもらっては「映画ドラえもん」シリーズばっかり借りた。セリフやシーンを覚えるまで観ても、一週間もすればまた観たくなるのだ。ある日突然、レンタルビデオ屋が夜逃げを敢行したときは、店内に残されたビデオテープのなかから、何が何でもドラえもんだけはいただくのだとわたしは大騒ぎしたが、それは叶わなかった。
大人になり、わたしはがむしゃらに働いた給料を貯めに貯めて『DORAEMON THE MOVIE BOX 1980-2004+TWO』というDVD作品集を手に入れた。夢を叶えた喜びと、夢を叶えてしまったという呆気なさで情緒がおかしくなり、しばらく封を開けることすらできず、家のなかの一番いい場所に飾っていたときもあった。どんなに忙しくとも、一週間に一作は深夜にボーッと再生しておくのが、いまの幸せである。
藤子・F・不二雄先生が原作をつとめたシリーズは、子ども相手に一切手加減せず、純粋なエンターテインメントの力で取っ組み合っているものばかりだ。冒頭はいつも、のび太たちの日常が侵食されるような、ゾクゾクする不気味さから始まる。正直ちょっと怖すぎるくらいだ。地底の大空洞に映る恐竜の影、真夜中のテレビから話しかけてくるような声、荒廃したビル群の世界に繋がるピンクの霧……得体の知れないゾクゾクが、やがて壮大な冒険の入り口に変わり、お馴染みのひみつ道具や仲間の活躍でハラハラ、ワクワクへ変わっていくのがたまらない。感動を湧き上がらせるためだけの大げさな演出や名言は少ないけど、だからこそ何気ないシーンにも細かい発見が尽きず、飽きずに観ていられる。
子どもの頃はただ楽しんで観ていられたのに、大人になってから観ると「おもしろい!」の奥底で一粒の切なさのような感情が胸に残ることに気づいた。ドラえもんっていうのは、実は、わりと切ないのだ。
パラレルワールドという仕組みが、すでに切ない。冒険の果てにのび太たちは世界を救い、出会った魅力的な人たちと友情を結んで「またね」と別れるけれど、映画が終われば日常は戻り、もう二度と会えないことを大人のわたしは知ってしまっている。
物語の世界は美しいけれど、現実の世界は厳しい。疲れた大人だけが気づいてしまう事情である。聡い藤子先生はきっと気づいているだろうけど、映画本編では、そういう微妙な切なさは決して慰められない。
切なさを手放せない人たちにこそ、今すぐ、武田さんの歌を聞いてもらいたい。
『ドラえもん のび太の創世日記』の主題歌『さよならに さよなら』は、パラレルワールドの物語を生きる切なさへの、最高の慰めだとわたしは思う。
『ドラえもん のび太の創世日記』は夏休みの自由研究として、のび太がミニチュア版の地球をつくり、そこで生まれた人間が築く文明や歴史を見守るという壮大なストーリーだ。地球が生まれてから何億年もの時間を早送りするため、作中では、出会いと別れが無数に発生している。
そのストーリーを受けて、武田さんが『さよならに さよなら』で綴った答えは。
遠い昔に別れた人も
ひとまわりすれば
すぐそばにいる
時間は螺旋の階段
さよならさえもつながってゆく
これを書いている瞬間にも、わたしの視界は涙でかすんでいる。ドラえもんの世界を越えて、現実の人生の見え方が変わる。わたしはこの歌を聴いてから、さよならが、まったく別の意味を持つようになった。
さよならは悲しい。それでも時間は進み、人生は続く。さよならさえもまた、新しい幸福な出会いに繋がっていく。いくつもの理不尽な別れや、悲しい別れを経験した大人にこそ、歌詞が刺さりまくる。歌詞に容赦なく込められた本質と、例えの強度がすごい。
別の作品『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』では、遠い宇宙の果てにある惑星の大統領“パピ”が、反乱軍に追われ、地球へ亡命するところから始まる。のび太たちはラジコンの戦車に乗り込み、反乱軍から惑星を解放するために奮闘する。スターウォーズを彷彿とさせる戦争ものだが、これも大人が観るとちょっと切ない。
なにせ、パピはわずか10歳で大統領に就任した天才少年なのだ。国のためならどんな危険も厭わず、仲間思いで責任感の強いパピだが、それゆえに問題を抱え込み、ひとり黙って絶望的な敵地へ赴いてしまう。
まだ10歳の子どものくせに大人みたいなしゃべりかたをし、冷静に振る舞うパピの姿。そんなパピが背負うものの重さを知り、命を落とすかもしれない恐怖に震えながらも、彼を守るために飛び出していくしずかちゃんやスネ夫の姿。子どもながらに、自分の非力さに気づいていながら、それでも強くあろうと奮い立たねばならない。この壮絶な切なさに、少年期の自分を重ねてしまう人はいないだろうか。
本作の主題歌『少年期』では、問題を解決できる大人になりたいけど、本当は無邪気な子どものままでいたいという永遠のジレンマが歌われている。
悲しい時には 町のはずれで
電信柱の明り見てた
七つの僕には 不思議だった
歌詞の舞台はドラえもんのストーリーによって呼び起こされた、武田さん自身の過去だそうだ。酔っ払った父親と母親が自宅で大喧嘩をしているとき、武田さんはなにもできない悲しみにいたたまれなくなり、両親が争う声の聞こえない公園まで行って、街灯の明かりをじっと見つめていたという。こんな原体験をフッと呼び起こさせた、藤子先生もすごい。
7歳の武田さんによる純粋な問いかけが、歌の最後ではそのまま歌われている。
ああ 僕はいつごろ大人になるんだろう
藤子先生が歌詞を絶賛し、武田さんに主題歌を担当し続けてほしいと頼み込んだということは「映画ドラえもん」と「武田鉄矢の主題歌」は、創作におけるすばらしい補完関係にあったんだろう。子どもを楽しませるために作られたストーリーだけど、確かに胸へ残る切なさへの慰めを絶対に忘れない。
わたしみたいにドラえもんを観て育った大人が、現実の世界でくじけそうになったとき、ストーリーだけでは語り尽くせなかった切なさに、歌が優しく寄り添ってくれる。物語のようにはうまくいかない世界でも、踏ん張って生きるための力をくれる。
わたしもいつか、そんな物語を作りたい。そして物語には書ききれなかったことを、優しく鋭く歌ってくれる人と出会いたい。