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物言わぬ旧友たち 澤田瞳子

 数年ぶりに、万年筆に黒インクを入れた。これまた長らくしまっていたペンケースを取り出し、メインで使っているもう一本の万年筆と共に納める。わたしが主に万年筆を使うタイミングは原稿の校正時で、だからメインのそれには購入以来、ずっと赤インクが入っている。

 万年筆はかつては、古臭い印象があった文具。だが最近はそのレトロさが逆に愛され、若い世代にも使用者増加中。カラフルかつ多様で、ハマると抜け出しがたい万年筆インクの世界を「インク沼」と呼ぶほどだ。

 ただ私の場合は仕事上の書き物が中心なので、あまりインクの色では遊べない。校正に使う赤インクを、深い臙脂(えんじ)や鮮やかなピンクに変えたりするのが関の山。加えてこの三年、外に出る折も稀(まれ)だったので、万年筆を外に持ち出す機会は皆無だった。家でメモを取る程度なら、鉛筆やシャープペンシルで事足りる。結果、黒インクを入れていた万年筆は隅に押しやられ、赤ペンばかりがひとり――いや、一本、活躍していた。

 だが少しずつ世間が動き出すにつれ、私も外出の機会が増えた。すると当然、家で日を過ごした万年筆たちにもご同行願わねばならない。久々にペンケースに納まった赤・黒それぞれの万年筆は「以前からずっとこの状態でしたよ」と言わんばかりにしっくり馴染(なじ)む。どちらも高級品ではないが十数年前に手に入れ、今回のように数年単位で使わぬ時期も、数日おきにインクを補充するほど酷使する時期もあったペンたちだ。

 身近な道具類との関わり方は、その時の生活様式によって大きく変化する。もしかしたら今後私はまた、万年筆を隅に押しやることがあるかもしれない。数年を経てからそうそうと思い出して、今回のようにインクを補充するのかもしれない。だが年を取らぬペンたちはきっと、そんな私にも辛抱強く寄り添ってくれるのだろう。そんな長所も短所も知り尽くした旧友のような彼らが心強く、自らのむら気がますます申し訳なくなってくる。=朝日新聞2023年5月24日掲載