1. HOME
  2. コラム
  3. 杉江松恋「日出る処のニューヒット」
  4. コンピュータに魅せられたエストニアの少年の運命は……。宮内悠介「ラウリ・クースクを探して」の巧みな叙述 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第6回)

コンピュータに魅せられたエストニアの少年の運命は……。宮内悠介「ラウリ・クースクを探して」の巧みな叙述 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第6回)

©GettyImages

なぜ小説は人間を描くか

 つきつめて言えば、なぜ小説は人間を描くか、ということなのだと思う。
 宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)が、今回私の紹介したいニューヒットの1冊である。そして、この小説を紹介したいと思った気持ちをまとめようとして、今は私は困っている。
 なぜ小説は人間を描くのか、そこに人間がいるからだ、という出来の悪い箴言みたいなものにつきつめていくと考えがまとまってしまい、語彙の無さにうんざりしている。

 もう少し解きほぐして説明する必要があるようだ。
 本作の舞台はかつてソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の一部であったバルト3国の一つ、エストニアである。主人公であるラウリ・クースクはエストニアの首都タリンから車で1時間ほどのボフニャ村で1977年の初頭に生まれた。父はソビエトの機械技師である。
 父親の職業が影響してか、ラウリは早いうちから機械に関心を示した。また、数字にも執着し、紙にそれをずっと書き続けることに喜びを見出した。だが、苦手な分野もある。当時のエストニアでは、ソ連の公用語であるロシア語の履修が義務付けられていた。この言葉がラウリには奇怪な紋様のようにしか見えない。理解に窮すると、自分の好きな数字をロシア語の代わりに書いて済ませるようになった。当然教師からの覚えはめでたくない。学校はラウリにとって居心地のいい場所ではなかった。
 そんな生活を変えてくれたのが、父親が職場から持ち帰ってきたTRS-80コンピュータ、当時の言い方では電子計算機だった。壊れていた機械を父親は修理した。コマンドを打ち込むと画面にはそれに即した結果が表示される。ラウリはその魔法に魅せられた。やがて小学校にも実験的にコンピュータが導入され、児童への指導が始められた。ラウリはコマンドを打ち込んで簡単なゲームを動作させる。その様子を見ていた担任のホルゲル先生は、彼に放課後、コンピュータを自由に使う許可を与えた。ラウリの才能を見抜いた先生は、きみはソビエト連邦のエリートコースに乗れる、と励ましてくれたのである。モスクワの大学にも、サイバネティクス研究所にも行くことができるだろう、と。

「この国では、頑張って努力さえしたならば、誰にだってなんにでもなれるのだから!」
 というホルゲル先生の言葉には、苦い嘘が含まれている。全体主義国家のソ連では自由競争は時によって難しい。人が3人集まることもはばかられる、思想統制の存在する警察国家なのである。自宅にコンピュータがある家など普通ではないから、ラウリはそのことを隠した。先生は彼が嘘を吐いたことを保身のためには正しいと褒め、放課後にコンピュータを使うことも秘密にしておくように命じる。誰にだってなんにでもなれる。ただし、望むとおりの自分になるという運に恵まれたならば。全体主義国家で生きるとはそういうことだ。

 ラウリはプログラムのコンペティションに参加し、3等に入賞する。将来の夢につながる、一本の細い糸がモスクワとの間に結ばれた。1等を獲得したのはレニングラードに住む、イヴァン・イヴァーノフ・クルグロフという、ラウリと同じ10歳の少年だった。やがて自宅を出て中等学校の寮で暮らし始めたラウリは、イヴァンと運命的な出会いを果たす。イヴァンとラウリ、もう一人カーテャ・ケレスの3人が親しくなり、輝かしい日々が始まるのだ。

 1991年、ソ連は崩壊し、エストニアも独立を果たす。ラウリは14歳だ。つまり、彼が中等学校で味わった黄金の時には終わりが来る。体制が変れば、人々の暮らしも元のままではありえない。3人は散り散りになり、ラウリも自身の進路について決断を迫られる。

普遍的な感情とらえる

 1977年にエストニアで生まれた男性というラウリの属性だけを見れば、これは異国の、別の時間で暮らした人の物語ということになる。つまり他人事だ。もちろん他人の人生について知ることには意味がある。その土地、その時間でしか起こらなかったことが、誰かの生涯にどのような影響を及ぼすか。それはいつか他の時間、他の場所で起こることとの類推を招き寄せる。2023年9月では、依然としてロシアによるウクライナ侵攻が国際平和における焦眉の課題である。国の変化が個人の運命を左右するという構造は同じで、本作から現在の状況を連想する読者もいるだろう。そういう形で、小説に描かれた人生は読者の意識に働きかける。

 ラウリの小学校にコンピュータが配備された事実が示すように、エストニアは早くから情報科学教育に力を入れ、現在ではIT先進国として知られている。1980年代には個人向けのコンピュータ普及が進んだ。その時期に、夢が実現できる魔法の機械を手にした人は世界中にいただろう。もちろん日本にも。技術の普及は国境に縛られることがない。世界各地で、同じ時期に、コンピュータ技術は多くの人生を変えた。逆に言えば、その人にとっての世界を変えたのである。そうした意味で本作は、1983年にマイクロソフトとアスキーの間で取り決められた最初のパーソナル・コンピュータ共通規格、MSXの物語であると言うこともできる。ただし私は詳しくないので、これ以上詳しく書くことができない。

 エストニア生まれのラウリ・クースクを描くという特殊さが、実は誰にとっても共有しうるものを含んでいるということが、少しだけ説明できたように思う。ラウリの恋愛についても書いておきたい。14歳のあるときに終わってしまう輝かしい日々において、ラウリは恋愛感情を抱く。相手は、最大のライバルであり親友でもあったイヴァンだった。ラウリとイヴァン、カーテャの3人はまるで一つの分子のように行動を共にしていた。それが恋愛感情を育んだのか、それとも密接さを別のものと履き違えただけなのか。作者は事実のみを書いてラウリの心中には深く踏み込まない。読者にその判断は任されている。この感情の動きは特殊でもなんでもない。ごく当たり前のものであり、誰もが体験しうることだ。ラウリは自分である、と感じる読者は多いはずである。青春小説とは、そうした普遍的な感情を描くための効果的な手法だ。

 本作で最も重要なのは、叙述の形式である。ここまで意図的に書いてこなかったが、現在の時制から過去を振り返る形で話は進んでいく。名前の明かされない〈わたし〉が登場し、ラウリ・クースクを知る者に彼の人生を聞いていくという取材小説なのである。〈わたし〉が何者かというミステリー的な種明かしは、小説の主部がほぼ終了したときに、ボーナストラックのように行われる。それまでぜひ、読みながら想像していただきたい。本作が取材小説の形をとっている理由はプロローグで明かされている。

〈ラウリは戦って歴史を動かした人間ではなく、逆に、歴史とともに生きることを許されなかった人間である。ある意味、わたしたちと同じように。〉

 英雄ではなく、特別な存在でもない誰かの人生を物語として描く。それが作者の目的である。上で説明したように、ラウリは誰でもありえた人物だ。その人を描くことは小説の主題になりうるか、と自問し、なりうる、と宮内悠介は結論した。特別ではない主人公を描き、しかし読者の興味を惹きつけるためにラウリ・クースクの生きた舞台と時代を設定し、その特殊さの中に彼の担う普遍を埋め込んだ。極めて迂遠な手続きをとって宮内は、人間はその特殊さゆえに小説の主題となるのではない、人間であるからこそなるのだ、ということを語ろうとしている。愛すべき作品ではないだろうか。