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「長恨歌」書評 都市や歴史の豊かな「隙間」描く

評者: 福嶋亮大 / 朝⽇新聞掲載:2023年09月30日
長恨歌 著者:王 安憶 出版社:アストラハウス ジャンル:アジアの小説・文学

ISBN: 9784908184468
発売⽇: 2023/08/30
サイズ: 20cm/643p

「長恨歌」 [著]王安憶

 1996年に刊行された王安憶の『長恨歌』は、中国現代文学の代表作としてすでに高い評価を得ている。この名作を熟練の訳文で読める――まさに望外の喜びと言うべきだろう。
 本書は、上海の弄堂(ロンタン)(横町)生まれの「お嬢さん」王琦瑶(ワン・チーヤオ)の一代記だが、その事実上の主役は1940年代以降の上海であり、都市でささやかれる神出鬼没の「流言」である。映画製作やミスコンへの出場、波乱の結婚生活や女どうしの友情をめぐる数々の物語は、ミクロの粒子となり「コンクリートで作られたアリの穴」のような都市の迷宮に静かに広がってゆく。その結果、都市や歴史の「隙間」こそが、並外れて豊かな意味を帯びるのである。
 華やかな夢をアクシデントで中断された王琦瑶は「間違って世界から裁断された切れ端」である。彼女のような「断ち切られた人生」を受け入れる都市の隙間は、秘密めいた夜の色をしている。人生の秘密を強引に暴くことなく、わからないなりに語り伝えること――それが夜の都市の、ひいては小説そのもののつつましい倫理なのだ。
 もとより、いかなる都市も変質を免れない。王琦瑶の娘世代になると、人心は粗野になり、豊かな隙間は失われてしまった。「ネオンが再び輝いても、あの夜は帰らない」。大切な人たちが世を去り、何世代にもわたって築かれたモラルや感性が失われたとき、世界は形だけのものとなる。しかし、えんぴつ書きの柔らかさを感じさせる本書の文体は、歌が終わった後の余韻の美しさをも伝えずにはいないのだ。
 文化大革命の嵐をくぐり抜けた王安憶は、あらゆる無垢(むく)なロマンスの終わった地点から、上海を再創造した。そこには日々の平凡な生活への慈しみとともに、都市の肌を撫(な)でるような思索がある。この点で、本書は上海を語り手とする感情豊かな〈思想書〉でもあるだろう。読者は文学の力を再認識するに違いない。
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ワン・アンイー 1954年に南京で生まれ上海に育つ。80年に作家活動を本格化。中国作家協会副主席、復旦大教授。