①2025年、今、アメリカで何が起こっているのか? ──『戦争と西洋』(西谷修著)より 記事:筑摩書房
第2次トランプ政権が誕生して約5カ月後の2025年6月に上梓された『戦争と西洋』(筑摩選書)。著者の哲学者・西谷修さんは、戦争や世界史に関する数々の論考を発表し、「アメリカ」という国について考え続けてきました。これまで西側諸国は、「民主主義vs.専制主義」という対立構図を前提に、アメリカを「自由と民主主義の擁護者」だと見なしてきました。しかし、西谷さんは、こうした見方は、第2次世界大戦以降、アメリカが対外介入を正当化するために、自らが築いてきたイデオロギーの延長線上にある、と主張します。
トランプとその取り巻きは、グローバルな民主化や、対外介入を進めてきた政治、官僚、軍、産業、学術界の複合体(「ディープ・ステート」)こそがアメリカを衰退させたと考え、「アメリカ国内の改革」を最優先の課題に掲げます。第2次トランプ政権の発足後、現在、アメリカで起きているのは、「民主主義の危機」ではなく、こうした2つのアメリカ勢力にある「内戦」の後始末だ、と西谷さんは位置づけます。
つまり、今アメリカに起こっているのは、その「内戦」の後始末である。選挙には勝った。そうしたら大統領の仕事は、まず「敵」の解体である。どういう手順で戦うのか、トランプ陣営には準備があったようだ。それが閣僚の布陣によく表われている(軍、CIAの解体、政官産学結託[とくにバイオ・ケミカル]の解体、そしてUSAID[アメリカ合州国国際開発庁]の解体、ただし無くすのではなく「偉大なアメリカ」にふさわしいように改編)。
アメリカの「政変」に選挙権をもたない外国の我々は介入できない。すべくもない。なのになぜ、プロレスの観客よろしく、逆上して一方だけをけなさねばならないのか。無法者だとか、ロシア寄りだとか、プーチンに弱みを握られているとか…。トランプはかつてプロレス興行(WWE)に関わっていた。自分もオーナーとしてリング際で見せ場を作るのは得意だ。だから彼は大見えを切る。客のブーイングさえ稼ぎのネタにする。それを外国の我々が必死になってブーイングするのは、もう日本も「アメリカ」だと思い込んでいるからではないのか? 今では大リーグが日本で一番人気のスポーツ・エンタメであるように。(2025年、今、アメリカで何が起こっているのか? ──『戦争と西洋』(西谷修著)より)
西谷さんは、トランプを「単なる独裁者」だとは思っていません。アメリカは建国以来、私的所有権と個人の自由を最優先に発展してきた国であり、不動産開発や市場原理を基盤として拡大してきた歴史を持っています。その意味で、自己の利益を率直に追求し、取引(ディール)を重視するトランプを、西谷さんは「むしろアメリカ本来の性格を体現する存在」と捉えています。
アメリカとはどういう国か、あらためて確認しよう。
ヨーロッパ渡来の白人が、先住民をいないことにして土地を強奪、私的所有権を金科玉条に、それに基づく「自由の国」を作った。もともと株式会社(植民地開発会社)によって作られたその「国々(13州)」は、イギリス国王が税金を吸い取るのを不当だとして「合州国」政府を作り、イギリスの徴税権を排除した(それを「独立革命」と言うようだ)。「合州国」はもともと株式会社(植民地開発会社)=私企業の組合だから、ヨーロッパの主権国家群とは成り立ちがまったく違う。だから独立後、「西半球の例外化」を主張して、ウェストファリア体制の「古いヨーロッパ」に対して三下り半を突きつけた(モンロー宣言)。
その後は、大陸内の「フロンティアの西進」で、自然の大地すべてを「不動産」に転換した。それを私的所有権の法制度が支える。「新世界」だから封建制の束縛はない。みんな平等だ。獲った者勝ち。何でも物件化したら自由処分も売買もできる。大地にある物すべてが財産になる。
その「すばらしい新世界」建設のキーマンが、不動産屋だったのである。
(中略)
「アメリカの偉大さ」を維持するために、EUのデンマークなど無視して、グリーンランドを買うと言う(合州国はフランスからミシシッピー流域を買い、カリフォルニアもメキシコから買い、最後にアラスカもロシアから買って大きくなった)。カナダには51番目の州になれと言う。戦争ではなくディール(脅し取引)でやるから問題ない、と。(同上)
2度の世界大戦と冷戦を経て、アメリカは「世界の警察」へ、のし上がりました。その過程で、軍産複合体や情報機関などが巨大な利権構造をつくり上げ、戦争や対外介入を通じて利益を得る体制が築かれていったのです。ベトナム戦争、南米各地での政権転覆工作(CIA)、NATO(北大西洋条約機構)拡大、そして湾岸戦争、テロとの戦い――。あちこちに戦争地雷をしかけては、そのたびに「民営化・私物化」で儲ける。一方で、国内産業の空洞化や、移民の流入、格差拡大は、一般アメリカ人の不満を募らせ、それがトランプ支持の土壌へと繋がっていったのです。
では、そんなトランプの「最大の敵」とは誰でしょうか。イランでしょうか。ロシアでしょうか。西谷さんは、「アメリカを国際秩序や戦争に引き込んできたヨーロッパと、グローバル秩序を支える国内エリート層だ」と述べています。
アメリカとヨーロッパの分裂は、「西洋」の時代の終焉(しゅうえん)を示す歴史的転換点。ところが日本の高市早苗さんは首相就任後、ホワイトハウスに飛んで行ってトランプに抱きつき、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」と語りかけたという(仰天)報道がありました。西谷さんは、日本は「アメリカ従属」を続けるのではなく、自立した外交を模索し、BRICS諸国や中国との新たな関係をつくることで、「西洋の没落後」の世界秩序づくりに努めるべきだ、と締めくくります。だから中国にケンカふっかけてる場合じゃないぞ、高市さん。
②アメリカ市民社会を分断する8つの「断層線」――宗教は「アメリカの十字架」か?
記事:明石書店
こちらの記事は、上の西谷さんの論考とは対照的で、宗教社会学や、アメリカ政治研究の立場から、アメリカ社会の分断を掘り下げていきます。アメリカで、選挙や政治の趨勢に甚大な影響力を持つのが、国民の約4人に1人を占める「キリスト教福音派」。『アメリカの十字架』(明石書店)の著者・堀内一史先生(麗澤大学)は、保守的なその思想と行動に注目し、アメリカ社会が抱える8つの「断層線」を描き出していきます。
「福音派」は、聖書の言葉一字一句を絶対視するキリスト教徒の人たちのこと。1980年のレーガン政権以降、共和党の主要な支持基盤となってきました。一方、聖書の言葉を解釈し、その背後にある意味を理解する人々(=「リベラル派」)は、民主党を支持する傾向が強い。キリスト教は、アメリカ社会を統合する役割を果たしてきた一方、社会を分断する要因にもなっており、堀内さんは「『恩恵』であると同時に『十字架』でもある」と断じています。
筆者は、キリスト教はアメリカにとって十字架、つまり苦難でもあると主張する。社会を分断する契機を胚胎しているからだ。実際、アメリカ社会は歴史的に8つの断層線により分断されてきた。
従来、キリスト教会は各教派によって異なる神学思想を受け容れた信徒によって構成されてきたが、20世紀末には、イデオロギーによって線引きされた集団が集う場所を表すようになる。その結果生じた断層線は、政党支持にのみ見られる現象ではない。政治一般、市民の経済生活、人種、ジェンダー、環境、教育など生活の隅々にまで影響を及ぼし、市民社会を分断しているのである。(アメリカ市民社会を分断する8つの「断層線」――宗教は「アメリカの十字架」か? より)
この本では、アメリカ社会を分断する「8つの断層線」を順番に提示していきます。経済格差、貧困への考え方、人種問題、性的多様性、気候変動への対応、教育、宗教と政党政治の結びつき、そして「イスラエル・パレスチナ問題」――。少しだけ抜粋します。
第6の断層線は、教育現場に影を落としている。
かつて、プロテスタントとカトリックの間に断層線があった。プロテスタントが多数派のアメリカに、カトリック移民が急増した19世紀中葉、公立学校でどの聖書を採用するかという問題をめぐって暴動にまで発展した。
20世紀中葉になると、保守的福音派とリベラルな非福音派との間に断層線が生じ、保守的白人福音派を動員して信仰と価値観を政治や教育に反映させるべく政治的活動を推進する宗教右派が、公立学校での聖書輪読や祈りの復活を求めたり、教育委員会での教科書選定や教員の委嘱を有利に進めたりする闘争を展開した。
(中略)
第8の断層線は、保守的な白人福音派の7割以上はイスラエルを支持する傾向があり、民主党支持者でリベラルな信仰をもつプロテスタントや教会無所属者などはパレスチナを支持する傾向がある。トランプ大統領が2017年にエルサレムをイスラエルの首都と認め大使館を当地へ移すと述べたときに福音派は拍手喝采を送った。信仰や政党支持によってイスラエルとパレスチナ支持が分かれるのだ。(同上)
アメリカ市民社会を深く分断する、一つひとつ深刻な断層線を抱えたまま、トランプは超大国の舵をとり続けます。
③トランプ大統領を創った男たち ロイ・コーンとスティーヴ・バノン 記事:白水社
ここでは好戦的なトランプの政治スタイルが、どんな人物や経験によって形成されていったのかを描いたノンフィクションを紹介します。
『ぶち壊し屋 トランプがいたホワイトハウス2017-2021』上下巻(伊藤真訳、白水社刊)は、混乱に満ちた始まりから、暴力的な結末に至るまでの4年間を網羅した、第1次トランプ政権の内情を詳細に描いた本。著者のピーター・ベイカー、スーザン・グラッサーは、それぞれ『ニューヨーク・タイムズ』のホワイトハウス主任担当記者、『ニューヨーカー』誌のスタッフライターという肩書です。本の中では、2人の重要人物――スティーヴ・バノンとロイ・コーン――との関係を軸に描いていきます。
まず、スティーヴ・バノンという人物。彼は、トランプの「アメリカを再び偉大に」という、トランプらしい大仰なスローガンに理論的な枠組みを与えた人。トランプを「ポピュリスト大統領」として位置づけようと積極的に演出しました。その政権運営は常に混乱に満ちていました。トランプ自身が携わっていた不動産業、そして、あるテレビ番組で培われたトランプ流の経営術が政治に持ち込まれた結果だと、著者2人は分析します。
トランプ政権ではほぼ全員が互いを信用していないことが明らかになっていった。だがそれにはそれなりの理由があった。「誰もが噓をついていましたからね。いつもです。それにほぼ何ごとに関しても」と、政権発足時にホワイトハウスにいたある補佐官は回想する。バノンもまた、「第2週目ぐらい以降、本当に醜い事態になっていったのです」と、あるときインタビューに答えている。政権スタッフの多くはその醜さを当のバノンのせいにしたが、バノンだけの責任ではなかった。ライバル派閥の内情をリークしたり、同僚を密かに盗聴したり、シグナルやテレグラムなどの暗号化された通信アプリを使った密かなメッセージのやりとりをしたりといったことが、すぐに蔓延したのだ。それをある閣僚は、「トランプ政権ではどんどん人を裏切らないと、気づいたときには自分がまんまと裏切られていたという羽目になるんですよ」と表現した。
このような混乱は偶然の産物ではなかった。それは何十年も前からトランプのビジネス手法であったし、テレビのリアリティ・ショー「アプレンティス」〔The Apprentice:見習い生〕でもトランプが説いていたものだ。2004年に同番組シリーズを売り込む中でトランプは、「人の世は残忍な場所だ。ジャングルと少しも変わりやしない」と述べた。
(中略)
政権内のいざこざに巻き込まれた経験を持つある政権幹部は証言する──「トランプは一致団結をめざすようなチームを率いるつもりはありませんでした。内紛や内輪揉め、つかみ合いの喧嘩を防ごうともしませんでした。まるで出演者たちが熾烈に競い合う『アプレンティス』めいた世界でしたよ。トランプは配下の連中が張り合い、互いに抗争することを好んだのです。要するにトランプの歓心を買うための競争です」。
こうして出現したのがスタッフ間に絶えざる不安を醸成する不安定な大統領だった。(同上)
もう一人、トランプの人格形成に最も大きな影響を与えた人物として、著者2人は弁護士ロイ・コーンを挙げています。強硬派弁護士コーンは、法廷闘争で徹底的に相手を攻撃する姿勢で知られました。2024年に制作された映画「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」で印象的だった言葉、「謝るな、反撃せよ」という戦術をトランプに教えたコーン。彼は数々の案件でトランプを支え、法律より勝利を優先する発想を植え付けました。その深い関係、そして、思いがけない病に倒れたコーン晩年にトランプが下した「裏切り」とは――。詳しくはぜひ本編で。
そしていま、中東情勢を大混乱に陥れているトランプ。イランを攻撃・威嚇する際には、「今夜、イランをとても激しく攻撃する」「48時間以内に(ホルムズ海峡を)開放しなければ最大の発電所を攻撃する」などと過激な言葉を多用しています。こうした好戦的な性格が醸成された理由も、この本から推し量ることができそうです。
④なぜ米国とイランは戦争をするのか 宮田律『黒い同盟 米国、サウジアラビア、イスラエル』より 記事:平凡社
アメリカという国、あるいはトランプという人物の輪郭がつかみかけてきたところで、「じゃあ今(2026年7月時点)、イランと戦争をしている(そしてなかなか終わらない)のはなぜ?」という疑問が湧き立ちます。ここで紹介する『黒い同盟 米国、サウジアラビア、イスラエル「反イラン枢軸」の暗部』(平凡社新書)は、現代イスラム研究センター理事長の宮田律さんが、アメリカ・サウジアラビア・イスラエルの3国関係を軸に、中東情勢を読み解くための問題提起をしています。今回紹介する記事の中では、「地政学」「中東政治」に最も焦点を当てています。
この3国の共通項は「反イラン枢軸」。その3国関係は地域情勢だけでなく国際政治にも大きな影響を及ぼし、それはわたしたち日本も無関係でいられません。記事の初めには、往年の人気漫画で起きた、あるエピソードを取り上げています。
漫画家のさいとう・たかを氏は、『ゴルゴ13』の中で中東の某国指導者が偽物だという設定で話を描いたところ、その国の大使館から抗議が編集部に来て驚いたことがあるそうだ。
『ゴルゴ13』第58巻(「110度の狙点」、1983年2月発表)は、サウジアラビアが舞台のストーリーとなっている。国王顧問のザルマン王子の姪がニューヨークで暴行され、殺害される。ザルマン王子は、ゴルゴ13に犯人の殺害を要請するのだが、実は犯人は自分の息子で、王位継承順一位のナジャー皇太子だったことが判明する。そこで、ザルマン王子は、ハリージュ派(「不敬虔」と考えた者たちを殺害するハワーリジュ派なら実在するが)の刺客たちをニューヨークに送り、ゴルゴ13の暗殺を試みる。しかし、ゴルゴ13 は、ハリージュ派の刺客だけでなく、ナジャー皇太子までも殺害する……。
当時のファハド国王やレーガン大統領など実在の人物も登場するが、たしかにサウジアラビア大使館が見たらクレームがつきそうな内容だ。
ザルマン王子の発言として、「我が国が昨年、米国政府より購入した兵器の総数は55億ドル! 他を圧する世界一の購入国であります! その半分を、フランス、西ドイツにふり向けると通告しただけでレーガンの首は危うくなります……。大軍需産業と国防総省の産軍複合体が有する威力を彼は知り抜いているはずです!」というものがある。また、ザルマン王子はファハド国王に「万が一、イスラエルが核を使うハメに陥っても対象はイランであること!!」と進言する。
何やら現在のサウジアラビアへの武器売却に熱心なトランプ政権とカショギ記者殺害にまつわるムハンマド皇太子の姿勢がダブるような古くて新しいテーマであり、1980年代前半の中東情勢や国際関係からこの地域がまるで変化していないようだ。(なぜ米国とイランは戦争をするのか 宮田律『黒い同盟 米国、サウジアラビア、イスラエル』より)
筆者の宮田さんは、サウジアラビアによる言論弾圧や人権侵害を批判します。サウジアラビアという国は、対話よりも、武力による秩序形成を重視する姿勢を強めていて、自由や民主主義を掲げる「とされている」アメリカが、こうしたサウジの行動を擁護し続けることは、「理念と外交政策との間に矛盾を抱えている」と論じます。そしてわたしたちに警鐘を鳴らします。
特に日本で米国との強固な同盟関係の維持を訴える政治指導者たちがいる限り、サウジアラビアと米国の「黒い同盟」には注意や配慮が必要だ。トランプ政権の米国、ムハンマド皇太子が主導するサウジアラビア、また強硬なネタニヤフ首相のイスラエルは反イランで緊密に連携しつつある。
イランは2015年に成立した核合意を順守しているとIAEA(国際原子力機関)も再三確認しているが、それでもこの三国は、イランは信用できないと言い張り続けている。
トランプ政権は、19年5月に、イランの軍事的脅威があるとして、エイブラハム・リンカーンなど空母打撃群をペルシア湾に派遣し、またB52戦略爆撃機もカタールの米軍基地に展開させ、ペルシア湾地域の緊張はいやが上にも高まるようになった。
この三国に同調する国はきわめて少なく、これら三国の主張や行動は不合理と見えるが、それでも世界に重大な影響を及ぼす同盟である。(同上)
この「黒い同盟」は、国際社会全体から必ずしも広い支持を得ているわけではないものの、世界情勢を左右するほどの影響力を持つ存在です。不安定な中東情勢や3国の関係を正しく理解することが、日本の外交や安全保障を考えるうえで不可欠、と宮田さんは主張します。この記事の配信は2020年1月。現在の軍事衝突が始まったのは2026年2月28日のことですから、事態はとんでもなく悪化しています。
⑤日本と平和を愛したドナルド・キーンさんの気軽な「書斎」 東京都北区立中央図書館に蔵書コレクション 記事:じんぶん堂企画室
ここまで、アメリカの政治や戦争を紐解いてきました。埋まらない溝、終わらない戦争。日本国内に目を向けてみても、米軍基地問題の解消にはおよそ遠く、ホルムズ海峡のタンカーだってどうなるかわからない。それなのに、「対米追従」をあからさまに見せつける現政権って……。でも、「アメリカって、そんな側面だけ?」。最後に紹介する記事は、平和を愛したアメリカ人、日本文学研究者ドナルド・キーン(1922〜2019)についてのお話。「じんぶん堂」でかつて続いた連載「図書館お宝紀行」から、東京都北区立中央図書館を取り上げます。
この図書館は、大正時代の赤レンガ倉庫を保存・活用した特徴的な建物です。この歴史ある空間を気に入っていたキーンは、晩年に日本へ永住する際、自身の蔵書の一部を同館へ寄贈したそうです。「閉架ではなく、誰もが自由に手に取って読めるようにしてほしい」という本人の希望によって、現在は「ドナルド・キーン・コレクション」として一般公開されています。生前のキーン自身も散歩の途中に立ち寄っては、寄贈した本を執筆の参考に利用したそうです。
キーンさんは1922年、ニューヨークに生まれた。自伝『私と20世紀のクロニクル』(中央公論新社)によると、子どもの頃から成績優秀で、飛び級を何度か繰り返し、1938年に16歳でコロンビア大学に進学したという。
入学して語学の勉強を始めたが、まもなくヨーロッパで戦争が勃発する。やがて1940年、「私の生涯で最も陰鬱な年にドイツ陸軍が突如進撃を開始した」(前掲書)と述懐するとおり、ナチスドイツによるヨーロッパの国々への侵攻は本格化していった。
戦争の記事を読みたくないあまり、キーンさんはますます外国語を学ぶことに没頭していく。そんな折、キーンさんにとって「救いの手」が差し伸べられた。『源氏物語』との出会いである。
タイムズ・スクエアの本屋で、山積みされていた『The Tale of Genji』という本を見つけた。アーサー・ウェイリー訳で、2巻セット49セント。お買い得だと思ったキーンさんは購入して帰った。
そうして読み始めた『源氏物語』に、キーンさんはすっかりこころを奪われる。どこか遠くの美しい世界が描かれ、そこには戦争がなかった。
この時の出会いは、のちのキーンさんの人生を日本文学研究へと導くことになる。(日本と平和を愛したドナルド・キーンさんの気軽な「書斎」 東京都北区立中央図書館に蔵書コレクション より)
記事によると、図書館のコレクションには、和書490冊、洋書298冊の計788冊が収められているそうです。専門書だけでなく一般読者にも親しみやすい本が多く選ばれ、『明治天皇』執筆時の参考資料や日本文学に関する書籍、交流のあった三島由紀夫や大江健三郎、安部公房らの英訳本なども並んでいます。コーヒーをこぼした跡が残る『The Tale of Genji』など、愛読書ならではの痕跡も。蔵書の受け入れに携わった図書館職員は、取材に対しこう語ります。
「キーン先生は平和をとても大切に思っていらっしゃいました。その思いを子どもたちに伝えることは、とても有意義だと思います」(同上)
ひとりのアメリカ人が本を通して地域社会と繋がろうとした姿勢や、日本文化への敬愛、そして平和への願い。それが、図書館という公共空間の中で今も受け継がれている――。いま世界じゅうを覆い尽くす、きな臭いニュースにささくれ立った心を鎮めるのに、これ以上ふさわしい場所はないのかも知れません。「全ての人は生まれながらにして平等であり、生命、自由、幸福を追求する権利を持つ」。250年前、独立宣言として掲げた、その崇高な理念を今こそ。