1. HOME
  2. インタビュー
  3. 「日本精神史 近代篇」著者・長谷川宏さん 時代にあらがい、生きる姿に見る希望

「日本精神史 近代篇」著者・長谷川宏さん 時代にあらがい、生きる姿に見る希望

長谷川宏さん

 縄文期の三内丸山遺跡から江戸後期の「東海道四谷怪談」まで、文学・思想・美術の作品を俎上(そじょう)にのせ、そこに現れた精神のありようを描いた前作「日本精神史」(講談社学術文庫、上下巻)から8年。今回も手法は同じだが、論争に事欠かない近現代の難しさを尋ねると、長谷川さんはうなずいた。「特に自分の生きてきた『戦後』を書くのは若い頃からの宿題だった。覚悟はありました」

 大きな歴史の節目はやはりアジア太平洋戦争だと見えてきた。取りあげる作者と作品の候補が浮かんでは消えた。頭においたのは普遍性、バランス、そして専門家に学びつつも「世の中の主流の価値や流行にとらわれないこと」だった。「ちゃんと実質的に生きた人」を選んだ。

 そのまなざしは、福沢諭吉や中江兆民、夏目漱石に森鴎外ら、定番的な名前が多く登場する上巻よりも、1930年代以降を論じた下巻で、印象深い。

 「軍国ファシズム下における表現の可能性」と題した章の一項が、谷崎潤一郎「細雪」である。翼賛体制下で連載中止となるが、谷崎はひそかに書き続け、200部を自費出版した。贅沢(ぜいたく)は敵だと叫ばれた時代、自分の嗜好(しこう)や美意識を信頼する姿勢が揺らぐことはなかった。その「誠実さ」を長谷川さんは「静かな抵抗」とみた。

 作家の中野重治には、上下巻を通じ、ただ一人、1章を充てた。転向小説として知られる「村の家」。主人公が田舎へ戻り、父の説得にあい、悩み、なお執筆を続けたいと表明する。

 「主人公は己を貫くだけでなく、周囲を『ともに生きる人間』として気遣うんですね。強靱(きょうじん)な個と共同体への敬意の双方がある。中野自身も戦後、共産党を除名されるなど、その都度、格好をつけず正直に生きた。一貫したものがありました」

 長谷川さんは続ける。戦争を止めるという点では、谷崎も中野も、完全な敗北に違いない。けれど、それぞれが置かれた立場で、もがき、踏ん張った。「そういう人たちの存在は、長い射程の中で考えるなら、希望といえるのではないだろうか」

 こうした視点は戦争や政治以外でも感じさせる。たとえば「戦後の大衆文化」の章で記す小津安二郎「東京物語」である。

 都会で暮らす子らのつれなさに「欲言や切りゃにゃが、まァええ方じゃよ」と老夫婦が語りあう。「受け容(い)れられるかぎりのことは笑って受け容れる」せつなさと美しさが同居する小津の描き方を、長谷川さんは近代化への抵抗と寛容さ両面から、評価している。

 「素敵ですよね。あの場面が、人間社会と人間の生きかたの、根幹に関わる問題ではないかと思えてくるんです」

 長谷川さんは東大大学院時代に大学闘争に参加、1970年から埼玉県下で塾を開く傍ら在野で研究を続けてきた。

 ヘーゲルやマルクスの読み方が変わったと自覚したのは、絵本作家だった亡き妻と4人の子育てに奮闘していた頃から。そして地域の読書会や、塾の卒業生らとの交流も大きい。市井の人々の素朴な問いや悩みから始める「生活の哲学」の試みは、難解な哲学用語を刷新した「精神現象学」などの翻訳に影響を与え、大きな反響と評価を得た。

 今回の「日本精神史 近代篇」に「暮しの手帖」の花森安治や児童文学者の瀬田貞二を登場させ、最終章を宮崎駿で締めたのも、長谷川さんの来歴や交遊と大いに関わりがある。

 「10年前から孫3人を育てていて、ジブリ映画を見たんです。驚いた。よく今まで日本精神史なんて言ってたなと(笑)。息子らには散々からかわれましたけど、実にいい時間でした」

 執筆を通じ、限界はあっても、戦後民主主義の自由・平等や平和の理念が自身の基準だったことを確認したともいう。

 「もののけ姫」が自然と人間の関係をめぐり「歯切れの悪い幕切れ」だったように、正解のない不安な時代だ。「それでも一人ひとりがそれぞれのやり方であらがい、信頼できる人とともに生きていく。そういう希望を持ちたいと思います」(藤生京子)=朝日新聞2024年1月17日掲載