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「頭のうえを何かが」書評 リハビリの技法としての芸術

評者: 福嶋亮大 / 朝⽇新聞掲載:2024年03月02日
頭のうえを何かが 著者:岡崎 乾二郎 出版社:ナナロク社 ジャンル:ノンフィクション・ルポルタージュ

ISBN: 9784867320235
発売⽇: 2023/12/14
サイズ: 15×22cm/141p

「頭のうえを何かが」 [著]岡﨑乾二郎

 造形作家の岡﨑乾二郎は2021年に脳梗塞(こうそく)(ストローク)で倒れ、右半身の麻痺(まひ)という深刻な事態に見舞われた。本書はそのリハビリの経過を、入院中に描いた40点余りの絵(詩人ぱくきょんみの穏やかな文が添えられている)とともに記した手記である。
 岡﨑はもともと「可塑(かそ)性」と「実験」をキーワードに芸術教育を実践してきた。リハビリはまさに脳の可塑性を頼りに、脳と身体のつながりを再創造し「自分自身を組み替える」作業である。その場合、頭でこうだと思っている感覚は、えてして実際の動きとずれてしまう。プライドを捨て、わずかな感覚の違いを察知して、動作をイメージし直さねばならない。
 もとより「誤作動」する脳を、当の脳によって修正することはできない。ゆえに、岡﨑は身体のさまざまな部位の発している情報に耳をそばだて「自分の身体を他人の大切な持ち物のように」扱う。脳の判断をあてにせず、他者=身体の声を聴きながら、少しずつ動作のコツをつかむうちに、当初は麻痺した右手で何とか描かれた猫が、4カ月後には何とカラフルな金魚にまで成長するのだ。
 この驚くべき恢復(かいふく)には、療法士や家族のケアとともに、道具の力も関わっていた。身体はしばしば予測不可能な緊張や痙攣(けいれん)に見舞われるが、道具と「会話」することで、その混乱は緩和される。岡﨑が手元のペットボトルに語りかけ、試行錯誤しながらそれを積みあげるとき、病室は即席の実験室に変わるだろう。
 岡﨑はストロークが「恩寵(おんちょう)」であり、哲学的・宗教的な「深い教え」であったと言い切る。このような境地に達し得る患者は多くないとしても、読者は誰もが胸うたれ、励まされるに違いない。芸術はエリートの専有物ではなく、世界との新たな結びつきを発明する、万人のためのリハビリの技法なのだから。芸術の力をこれほど深く感じさせる本は稀(まれ)である。
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おかざき・けんじろう 1955年生まれ。造形作家、批評家。『抽象の力』で芸術選奨文部科学大臣賞。