- ここはすべての夜明けまえ
- 穴持たずども
- レッド・アロー
最近は、記憶というものは保存と検索の関係にあるのではなく、都度生成されるものなのではないかと思うようになった。
間宮改衣(まみやかい)『ここはすべての夜明けまえ』では、機械の身体になり、不老不死になった女性が、家族史を書くために昔のできごとを思い出そうとする。「手術を受けた者はみな、機械のように思考するようになる」と言われた記憶があり、語り手はそれを反芻(はんすう)しつつ、抗(あらが)うように人間らしい語り口で、人間らしく見えるひらがなばかりの手書きの文字で歴史を書き留める。そこにはいくつかの悪夢と愛と贖罪(しょくざい)があるが、それらは一体どこで生まれたのか? 記憶がどれだけ切実なものであったとしても、思い出すのは機械の脳であり、あらゆる実感は演算であり、解は永遠に空虚な生成の中に閉じ込められている。
毛色は全く異なるものの、ユーリー・マムレーエフ『穴持たずども』もまた、思考と現実の垣根が融解している作品だ。すべてを空虚な場所へと送り込むことを願い殺人を繰り返す男、現実を不条理に閉じ込めるためにガチョウを性器に挿入する女、自らの体表に意図的に疥癬(かいせん)をつくりそれを食する男、現実は表象に過ぎないという信仰を持つ男たちなどが現れ、彼らは奇行を繰り返しながら各々(おのおの)の異形の思想を戦わせる。タイトルにある「穴持たず」とは、穴=帰る場所を失い、腹を空(す)かせながらさまよい歩く危険な熊を指す言葉だが、本作の登場人物たちにとって穴とは現実そのものであり、あるいはその外にある言語と思考と行為すらもそうには違いなく、何もかもが空虚で逃げ道がない。
ウィリアム・ブルワー『レッド・アロー』は次作を書きあぐねている小説家が、ゴーストライターとして行方不明の物理学者の回想録を書こうとする物語であり、語り手は鬱(うつ)を患い、回想録は書けず、ひたすら押し寄せる希死念慮と格闘する過程をセルフセラピーのように書き連ねるが、やがてサイケデリック療法と出会い、宇宙は脳内を巡る神経伝達物質の出力バランスによってまったく異なる様相を呈するものだと知る。できごとのすべては解釈にすぎないが、宇宙の多元的な構造そのものがそれらの解釈を許容するのだということを、男は一つの長い旅を通して知るのである。
もしも記憶が検索可能なものでなく、多次元化された言語パラメータによって都度それらしく生成されるものにすぎないのだとしたら、基底現実としての穴などはどこにも存在しないことになる。それでも、あるいは宇宙は常に既に生成されており、私たちはそこに私たちの現実を住まわせることができるのだ。脳に少し触れるだけで。少なくともその瞬間に限っては。=朝日新聞2024年4月24日掲載