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林詩硯「針の落ちる音」 静謐を湛えたゆっくりとした時間

林詩硯は、91年生まれで台湾出身の写真家。身体と精神の関係性に関心を持ち、作品を制作している。写真は本書から ©Lin Shihyen

 被写体の生活圏で撮影されたのだろうポートレイト、風景、静物などの写真はどれも、針が落ちる音も聞こえそうなほどの静謐(せいひつ)を湛(たた)えている。部屋には陽光が差し、草木は風になびき、果実が静かに朽ちていく。そんな世界にひっそりと佇(たたず)むのは、著者の呼びかけに応じて自らモデルに立候補した人たちだ。わたしには、彼女たちがとてもゆっくりとした――あるいは止まってすらいる――時間の中にいるように見える。女性たちが写真に向けるよう望まれてきた笑顔を、誰もつくっていないからだろうか。

 鑑賞者を少しずつ、しかし確実に、被写体一人一人が生きる世界の入り口まで導くような、写真のシークエンシングが素晴らしい。「手」のイメージが、一定のリズムで印象的に挿入されている。やがて読者は、その延長線上にある身体に刻まれた傷痕に気づくだろう。そこにどんな時間や思いがこもっているのかを、わたしたちが知ることはない。でも、傷が癒えるまでの短縮できない時間すべてに、彼女たちが立ちあってきたことはわかる。あとがきで写真家は、命が「若い頃に思っていたよりずっと強いもの」であることへの純粋な驚きを言葉にしている。偶然重なり合う身体と部屋と時間は、奇跡のように巡り合った被写体と写真家との相互行為のなかで、ゆっくりと写真になる。=朝日新聞2024年7月6日掲載