平成には源頼朝の研究が進んだらしい。頼朝は自らの御家人集団をしっかり固めつつ、朝廷との共存を受け入れたという意味で、自己抑制的な権力者だった。
激動の昭和と比べ、平成は国力が落ちたというか、落ち着いたというか、自己抑制的な権力観が強まり、それが歴史研究に反映されたと推測できる。ある中世史の論文から、そういう示唆を得た。
この自己抑制的な権力観が、少し遅れて近現代史にも波及したかもしれない。
これまで明治期の政党研究は、地主に基盤を置く二大政党(自由党系と改進党系)を主たる研究対象としてきたが、これに対し伊藤陽平『日清・日露戦後経営と議会政治 官民調和構想の相克』(吉川弘文館・1万1千円)は、日清・日露戦後の産業化と国際経済競争の激化にいち早く反応し、国内対立の緩和や保護関税を志向した、大岡育造のような勢力に目をつける。
彼らは大政党の非幹部派や小政党に分散して生息し、自ら政党内閣を組織する可能性の低い日陰者である。だが多数派形成の接着剤になったり、逆に多数派が切り崩される窓口になったりと、あなどれない存在感を発揮する。
最大政党、立憲政友会(自由党系)の優位を不安定化し、牽制(けんせい)と妥協の政治が日露戦後に長く続く原因となった。
強いられた自制
第1次世界大戦後になると、二大政党の政友会と憲政会(後に立憲民政党)が政権を授受する時代が到来する。
だがそこでも二大政党は自制を強いられたと十河(そごう)和貴『帝国日本の政党政治構造 二大政党の統合構想と〈護憲三派体制〉』(吉田書店・5280円)が指摘する。
護憲三派内閣が政党内閣期の皮切りとなるが、ここで連立を組んだ二大政党は、憲政会の意向もあり、官僚の専門性を尊重した政官関係を受け入れてしまう。後に政友会内閣がこれに挑戦したものの、統治機構の抜本的な政党化は実現できなかった。
背景には宮中の意向があったと著者は強調する。
最後の元老、西園寺公望が政党内閣を受け入れたことはよく知られている。これに対し、宮内大臣・内大臣を歴任した牧野伸顕をはじめとする宮中関係者は、西園寺を補佐しつつ時に牽制し、政党勢力の浸透に一定の歯止めをかけ続けたのである。
戦後、自由民主党の政権が長く続く。強さの秘訣(ひけつ)は与党事前審査制であった。予算・法案を事前に政務調査会で検討し、総務会が了承することで、国会審議では所属議員が結束して進退する。
この政務調査会を、明治期の源流から追った共同研究が、奥健太郎、清水唯一朗、濱本真輔編著『政務調査会と日本の政党政治 130年の軌跡』(吉田書店・4950円)である。
わがままな議員たちの会議かと思いきや、時代の要請に応じてきめこまかく仕組みや運用を変容させてきたことを印象付けられる。
だが政務調査会は成熟とともに危機を迎える。政策分野ごとの審議が精緻(せいち)化すると、分野を超えた調整が不得手になるからだ。これに乗ずるかのように官邸主導が登場し、今日に至る。
平成から令和へ
平成の権力観の試金石は、人物論かもしれない。政治家が自己抑制的な目標を立てるとして、その達成が視野に入った時、その先を求めないだろうか。あるいは、抑制的な目標すら達成できない場合、激昂(げっこう)して全てを求めることはないだろうか。
ダイナミックな人物理解を模索していけば、令和の権力観がほのかに見えてくるかもしれない。令和の政治権力は、平成以上に政策の選択肢が限られている。その現実を国民と共有できれば権力が透明化し、できずに惰性で進めば権力が崩壊するかもしれない。いずれにせよ指導者の苦悩と決断が前面に躍り出る。
平成を生きているつもりがいつのまにか令和に突入する。その羅針盤になりそうな本をご紹介した次第である。=朝日新聞2024年8月17日掲載