市民社会論といっても、丸山真男らスター論客の話ではない。専門家筋で一定の影響力を持ったものの、一般には無名の学究ばかりである。
マルクス主義による資本主義の発展段階論を組み替えて労働者の解放のあり方を模索した、日本労働史の東條由紀彦。脱学校の流れをくむポストモダニズムの渦中にいた、教育社会学の森重雄や職業教育研究の佐々木輝雄。「異貌(いぼう)」3人の仕事をたどることで社会主義が凋落(ちょうらく)し崩壊していった20世紀後半の社会科学を見晴らし、来たるべき社会像を展望した。
「近過去の研究は死角になりがちですが、若い人はどんな議論の遍歴があったのかを知らない。全体を『歴史』として伝えられればと思った」
執筆は「自分史」でもあったと明かす。ポストモダン思想が力をもった1980年代に一橋大で労働経済学を学び、大学院は歴史と実証という独特の形でマルクス経済学が存在感を示していた東大で過ごす。ほどなく冷戦終結。関心は社会倫理学へ移った。
経済思想を核に、公共性論、社会学論、ナウシカ論やSF関連、AI時代の哲学の著書を書き、関心の幅広さは今春まとめた『宇宙・動物・資本主義 稲葉振一郎対話集』(晶文社)が示す通り。ただ還暦を過ぎての変化は、学術的な仕事への再接近だ。「若い人の尻馬に乗る形で、人類絶滅と生存の倫理学というテーマに取り組んでいます。今までより先鋭的な研究をしている」という。
本書が学術的な議論に光を当てるのも、そうした志向と無関係ではないだろう。結論だけみれば「穏健なリベラルにという常識的な話」、でもそこへ至る過程では精緻(せいち)で真摯(しんし)な議論と問題提起があったことを継承したいと語る。
「ラディカルな社会批判と現実の間の往復が大切です。二枚腰ともいえるけど、徹底的に考え抜き、現実と向き合う『本気度』がいま最も欠けているものだと思うから」
言葉の定義もあいまいなまま原因を一元化し、レッテルばりする昨今のオピニオンの風潮を案じる。「後世に役立つ、深く考えるための思想史的な仕事」をめざす。(文・藤生京子 写真・大野洋介)=朝日新聞2024年9月14日掲載