「おそれ多い大先輩でした」。遠藤さんは同じく日本語を研究する後輩として活動をまぶしくみていた。だが素顔の寿岳さんは気さくで、京都の自宅に泊めてもらい、手料理をごちそうになったこともある。遠藤さんが設立メンバーの一人となった現代日本語研究会にも入ってもらった。
そんな縁のある遠藤さんは、専門誌「日本語学」の特集で寿岳さんの項を担当することになり、19年にあらためて寿岳さんの京都府内の旧居を訪ねた。遺産管理者が見せてくれたのが寿岳さんの日記8冊。10代後半の専門学校時代から30代の大学教師時代までの日々がつづられていた。
「達筆で丁寧に書かれた日記で、初めて見て驚きました」。すべてを1年がかりでパソコンでうちこんだ。そこには、遠藤さんの知らない寿岳さんがいた。
寿岳さんは女専と呼ばれた専門学校で猛勉強し、戦時中の43年に東北大へ。学徒動員も経験した。その後は京都大大学院に進み、研究者の道を歩いていく。ことわざや呼称といった身近な言葉に女性蔑視が色濃いことを指摘。日本語が女性らしさを強制してきたなどと論じた「日本語と女」(79年)といった著作へと実を結ぶ。
日記に書かれたのは勉強や研究のことばかりではない。日々の暮らしだ。
〈掃除、洗濯、靴みがき等朝の仕事たくさん〉〈マヨネーズを作り、床をはき、へやの整理をし〉
「女性が家事をしている間、男性は仕事ができる。家事育児は女性の研究者にとってハンディだと思っていた」と遠藤さん。「でも寿岳さんはハンディと思わず、暮らしの中から研究の種や芽を見つけていた。生活が豊かであることは仕事にもつながるんだと」
純粋に趣味も楽しんでいる。映画をたくさん見て、おしゃれして。洋服は生地から選び、好きなデザインで仕立ててもらっている。〈午前中かりぬひ(仮縫い)〉といった記述も多い。寿岳さんは明るい色やフリルのついた服を着て華やかだったことを遠藤さんは思い出す。自分のスタイルを選び、楽しんでいたのだ。
思いを寄せた男性への失恋も。「私は親に結婚しろと言われなかった、と明るく話していた寿岳さんですが、こんな苦悩もあったのだと人間的魅力を感じました」
また、寿岳さんは「憲法を守る婦人の会」代表を務め、市民運動にもかかわった。憲法から男女平等や人権について考え、女性の地位向上に向けて活動してきた。
遠藤さんは言う。「自分の主張を貫き、日本語研究の世界で影響力をもち、憲法を守る運動もリードした人だったけれど、こんなにも悩み、苦しみ、そして人生を楽しんだ人だったと知ってほしい」
今年、生誕100年となる寿岳さん。遠藤さんはいまを生きる女性たちに伝えたいという。「当時よりいろいろなことができる時代になった。元気をもって、やりたいことをやってほしい。この一冊が翼を広げるきっかけになればうれしい」(河合真美江)=朝日新聞2024年10月2日掲載