学習漫画と伝記
――いつもいちばん古い読書の記憶からおうかがいしております。
潮谷:幼稚園の頃に絵本をめくったおぼえはあるし、家にも本が残っているんですけれど、内容は記憶にないんです。小学校に入ったくらいの頃に、親戚のお兄さんからお古の漫画本をもらいまして。それが集英社の「日本の歴史」という学習漫画シリーズでした。これは何回もバージョンアップされているんですが、たぶん私が読んだのは最初のバージョンで、全18巻くらいでした。それが、本を読んだのも漫画を読んだのもはじめてでした。漫画を読みながら勉強もできるのがなかなか楽しかったですね。
それで、学研の「ひみつシリーズ」も読むようになりました。『宇宙のひみつ』などがありましたね。そういう学習漫画系なら親もいくらでも買ってくれたんです。そうしたシリーズってパターンがあって、だいたい博士が出てくるんですよね。『植物のひみつ』だったら植物のことを詳しく教えてくれる博士が登場する。しかもそういう博士って、簡単にタイムマシンや空飛ぶ円盤を作ったりと、なんでもありな感じだったので、自分も大人になったら博士になりたいと思っていました(笑)。今も自分の小説に結構博士を出しているのは、その頃の憧れがあるからかもしれないです。
――潮谷さんは大学で東洋史学を専攻されたそうですが、その頃からとりわけ歴史が好きでしたか。
潮谷:ものすごく好きというほどではなかったと思います。あまり集中力のある子供ではなかったので、そこまで何かにのめり込む気持ちにはならなかったです。
――学校の図書室は利用しましたか。
潮谷:小中学生の頃はそんなに使っていませんね。その頃はあんまり小説を読むことに興味が向いていませんでした。でも、小学生向けの伝記は読むようになりました。だから漫画ではなく活字の本を読むようになったのは、伝記が最初だと思います。それは図書室で借りたり、本屋さんで買ったりしていました。ヘレン・ケラーやシューベルトの話など、順番を気にせず目についた定番ものを選んでいたと思います。
――ごきょうだいはいらっしゃいますか。一緒に本を読んだりしたのかなと思って。
潮谷:私は一人っ子だったんです。なので人と本の貸し借りをすることもあまりなくて。なので、学習漫画以外の漫画は自分のお小遣いだけでなんとかしなくてはいけなくて、あまり買えませんでした。
小学生の頃、「ドラゴンクエスト」が全盛期で、ゲームの関連本も結構出ていたんです。ゲーム自体も大好きでしたが、そうした本も読んでいました。ゲームに出てくるアイテムの小話みたいなものの本もちょっとずつ読んでいたので、「ドラゴンクエストⅣ」のノベライズ、『小説ドラゴンクエストⅣ』が出た時に読んでみたんですね。以前からノベライズはありましたが、たまたま私が手に取ったのがそれでした。作家の久美沙織さんが書かれておられて。読んでびっくりしたのが、当時のゲームは容量の都合で台詞なども限られていたんですが、久美さんがそのちょっとした描写を膨らませ、味付けをして、ものすごくきらびやかな物語にされていたんです。最初はそれを立ち読みしてびっくりして、4巻ほどあったのを結局全巻買いました。5章形式で章ごとに壮年の戦士や若い女の子など主人公が変わっていって、文体も三人称から一人称に切り替わったりする。小説ってこういうことができるんだと、すごく印象的だったおぼえがあります。
――学校の国語の授業は好きでしたか。
潮谷:結構好きでした。本好きだったみなさんはそうだと思うんですけれど、本を読んでいると、わりとあまり勉強しなくても点が取れる科目なので。それで褒められると嬉しいですし。小学校高学年や中学生になると、教科書に小説の抜粋が載っているので、それで「この小説面白そうだな」と思ったら本を買ったりしていました。夏目漱石の『こころ』なんかは中学生の時に一部が教科書に載っていて、面白いと思って文庫版も買いました。
――読書やゲーム以外に何か打ち込んだことはありましたか。習い事とか。
潮谷:小学生の間は剣道をやっていたんですけれど、あまり試合で勝ちたいという情熱がなくて、なんとなく通っているだけだったので中学生になると辞めました。部活にも入っていませんでした。
中学生以降はゲームはあまりやらなくなったんですけれど、当時はゲームデザイナーになりたかったんですね。「ドラクエ」とかのゲームデザイナーの堀井雄二さんが子供向けの雑誌にもよく登場されていたので、自分もゲームを作ってみたいなと考えていました。今なら「RPGツクール」のような、プログラムを知らない人でもゲームを作れるソフトがありますが、当時そうしたものは全然なくて。プログラムを学ばないとゲームは作れないと思って勉強しようとしたけれども、数字が並んでいるのを見て断念しちゃいました。
当時の子供としてありがちなんですけれど、漫画家になりたいとも思いました。絵の描き方が難しいのでそれも断念したんですけれど。
――漫画家になりたいと思ったということは、学習漫画以外になにか好きな作品などがあったのですか。
潮谷:小学校高学年くらいから「少年ジャンプ」を買って読むようになりました。なのでコミックスはあまり買っていないんですけれど、ジャンプ漫画自体は読んでいます。小学生の頃は『ドラゴンボール』、中学生になると『ジョジョの奇妙な冒険』や、『幽☆遊☆白書』などが好きでした。『ジョジョの奇妙な冒険』は、やっぱりシナリオや台詞も面白くて、漫画って絵の上手さだけで成り立っているものじゃないんだなと印象に残りました。
――ご自身で物語を空想したりすることはありましたか。
潮谷:そうですね...。ああ、そうだ、幼稚園に通っていた頃、どの作品かは憶えていないんですけれど、絵本の登場人物を自分の頭の中で動かしたり、その絵を真似して自分もノートに絵本みたいなものを書こうとしたことがありました。ただ、絵本は解釈の余地があって想像の自由度が高い作品が多いんですけれど、漫画はある程度世界観が出来上がっているものが多いので、漫画を読むようになってからは自分で勝手にストーリーを考えることはなくなりました。ただ、たとえば「ドラクエⅣ」をやっている時に、自分なら「ドラクエⅤ」はこういう展開にするなとか、こういう話を作りたいな、といったことは結構考えていました。
今はスクエア・エニックスという会社になっていますけれど、当時「ドラクエ」はエニックスで、エニックスと双璧だったスクエアが「ファイナルファンタジー」のほかに、ゲームボーイで「魔界塔士Sa・Ga」というシリーズを出していまして。それがちょっと独特の設定で、いろんな世界が塔や迷路で繋がっていて、そのあちこちの世界を旅していく話だったんです。巨人の世界とか、マグマの世界があったりして。自分がこのゲームの続きを作るんだったらどういう世界を作るか空想していました。
――作文など文章を書くことはいかがでしたか。
潮谷:小中学生の頃は趣味で何かを書くことはあまりなかったんです。でも国語は得意だったので、読書感想文なんかは先生から言われてコンクールに出して評価されたりはしていました。なので書くこと自体は好きだったんですけれど、自分で小説を書いてみようとは思わなかったんですね。やっぱりゲームデザイナーや漫画家になりたいと思っていたので、そうするとどうしてもビジュアルが最初に頭に浮かんでいました。今も、話を構成する時は、漫画やゲームのキャラクターみたいなものがやり取りしているところを思い浮かべて書いています。そこまでビジュアル的な想像力があるわけではないので、容姿まで細かく浮かんでいるわけではないんですけれど。
歴史小説家を目指す
――潮谷さんは京都ご出身ですよね。京都は新刊書店も古書店も多いイメージがあります。
潮谷:はい。ただ、私は京都の中心部ではなくて、中心部まで電車で10分くらいのところに住んでいたんです。なので、ベストセラーなら近所の本屋さんにあるけれど、そうではない本は電車に乗って買いに行くという環境でした。街の図書館を使うという発想はなかなか子供の頃ははなかったです。小中学生の頃は電車代もなく、気軽に中心部までは行けないので、なにかのついでに行った時にちょっと本屋さんに寄るとか、古本屋さんで立ち読みするくらいでした。やっぱりでも、当時に比べると本屋さんの数はすごく減っている印象です。
――高校時代の読書はいかがですか。
潮谷:純文学が面白いかな、と思った時期がありました。吉行淳之介の「童謡」が高校の教科書に載っていたんです。吉行さんの作品は全部そうだと思いますけれど、すごく文章のリズム感がいいですよね。それで吉行さんの短篇集を読んだりしました。自分も書く時は常にああいうリズム感がベストなんじゃないかと思って書いているところがあります。
高校にはわりと大きめの図書室があったんです。そこに横山光輝さんの『三国志』が全60巻並んでいたんですよ。『ドラゴンボール』のような漫画は置いていないけれど、そうしたちょっと学べそうな漫画は置いてあったんです。それで横山さんの『三国志』を読破した後で、関連作品の紹介で横山さんの『項羽と劉邦』という漫画もあると知ったんですね。図書室に横山さんの『項羽と劉邦』はなかったんですけれど、家の本棚を見ていたら、司馬遼太郎さんの『項羽と劉邦』の上巻だけがあって。親が買ってきて読まずにそのままになっていたようです。横山さんの漫画の原作というわけではないけれど同じ話だろうなと思って、せっかく家にあるんだから読んでみることにしたんです。ここではじめて歴史小説を読みました。上巻を読み、残りは中古屋さんで揃えました。
――『項羽と劉邦』を読んでみて、いかがでしたか。
潮谷:やっぱり司馬遼太郎さんなので当然なんですけれど、流れに圧倒されたといいますか。2000年以上前の出来事なのに、今の情景のように生き生きと描かれている。反乱が起きて、項羽と劉邦が台頭して、だんだん軍勢が出来上がっていくんですけれど、個人の努力だけではないんですよね。飢餓の時代だったので、人々が食べさせてくれる人を求め、勢力のある人のもとに集まってくる。そういうところに歴史のダイナミズムみたいなものを感じました。特に司馬遼太郎さんは歴史の中の人物に関して、ところどころ感情移入したかと思ったらすごく突き放した目線で見たりしていて、全体で見ればフラットな視線であるところが格好いいなと思いました。
――司馬さんを読んで、ご自身にも変化があったそうですね。
潮谷:はい。自分でも歴史小説を書いてみたいと思いました。中国史は『三国志』関係だと小説も結構出ているんですけれど、他の時代の小説はあまり出ていなかったので、図書館などに行ってどの時代だったら書けるんだろうと調べていきました。ここから歴史書に入って、春秋戦国時代を書いた『史記』とか、歴史書のほうの『三国志』を読んだりしました。それで、歴史小説を書きたいとは思ったけれども、なかなか取材が大変だということが分かったので、もうちょっと勉強しようと思って。この時点で歴史小説家になりたいという気持ちがはっきりして、大学受験でも東洋史学があるところを選びました。
――潮谷さんといえばメフィスト賞出身のミステリー作家というイメージなのに、まさか司馬さんきっかけで歴史小説を目指されたのが出発点だったとは。ちなみに書きたいのはやはり、日本史ではなく中国史だったのですか。
潮谷:そうです。中国は国の興亡が激しいので、歴史を書くならやっぱり日本史よりも中国史のほうが面白いんじゃないかな、と思っていました。それに日本史だと戦国時代の武将も有名なので、その人物がどういう末路を迎えるか読者もある程度知っていますが、中国史となると幅が広いので、その中から誰かピックアップして書くと面白いんじゃないかとも思いました。
司馬さんはあまり中国史は書かれていないので、宮城谷昌光さんの中国史小説をいろいろ読むようになりました。その頃は春秋戦国時代を主に書かれている時期でした。特に面白かったのが『晏子』。それは書き方が他とは違うというか。晏子は春秋時代の君主の臣下で、聖人君子として立派な生き方をした人。その人の清廉潔白な生き方が描かれるんですけれど、宮城谷さんの作品って、その時々で脇役が活躍して、それが主人公が埋もれるくらい面白いんです。晏子がわりとちゃんとした生き方をする一方で、その国で同じ人物が三回くらいクーデターを起こすんですが、そっちのキャラクターの掘り下げ方もものすごく面白かった。
――大学の授業は面白かったですか。
潮谷:「ここは小説に活かせるんじゃないかな」などと思いながら授業に出ていたんですけれど、やっぱり実際の研究とエンタメは違うなと思いました。あまりに深く掘り下げると小説として書けなくなっちゃう、みたいなところもありましたし。
今は日本語訳された中国の歴史書も増えましたが、当時はそれほどでもなかったんです。劉邦が前漢王朝を開いて、その400年くらい後に三国志の時代になりますが、当時私が考えていたのが、その間の時代の、後漢王朝を開いた光武帝の話だったんですね。日本に「漢委奴国王」の金印をくれた人で、その人を主人公にした小説がなかったので自分で書いてみようかなと思って。でも当時はその時代について翻訳された歴史書が見当たらず、断念しました。
本当は在学中に研究をしつくして、歴史小説を1冊書いてデビューしようという甘い見通しを立てていたんです。でも無理っぽいなと思い始め、いったん夢を封印して就職活動をしました。そのあたりで、歴史小説から目を離して、推理小説や一般の小説を読みはじめました。
――学生時代はサークル活動などもされず、小説を書くことに力を注いでいたのですか。
潮谷:バイトとかもしつつ歴史書などを読んでいたんですけれど、途中で情熱が落ちていったので...。当時の学生っぽい、そんなに頑張っていない学生という感じでした(笑)。
――学生時代に読んで印象に残った小説はありましたか。
潮谷:一人の作家を集中して読んだりはしなかったのですが、その頃読んで面白かったものでいうと、ゴールディングの『蠅の王』とか、ロートレアモンの『マルドロールの歌』とか。『マルドロールの歌』は散文っぽい詩と小説の中間くらいの内容で、空から追放された悪の化身が悪の限りをつくす話で、シュルレアリストの人からバイブルのように見なされている作品です。あまりにシュルレアリスム的な作品だと意味が分からなくなりますが、これはギリギリのところでエンタメとして成り立っていて、その感じがすごく面白いと思っていました。
歴史の本を読むうちに、世界史の出来事を一年ずつ新聞記事のように紹介していく「歴史新聞」というムックみたいな本を見つけたんですが、そこで『マルドロールの歌』が紹介されていたので読んだんです。
――中国史だけでなく、世界史に目を向けてらしたんですね。
潮谷:中国史を追究していくと、たとえば中国と国境が接しているロシアに目を向けたりするようになって、広がっていきました。
――新作の『伯爵と三つの棺』もフランス革命直後のヨーロッパの架空の国が舞台ですよね。なので世界史がお好きだったんだろうなとは思っていました。
潮谷:それは大学を卒業してからの話になるんですけれど、『ナポレオン ―獅子の時代-』という長篇漫画を読んだことが大きいです。20年くらい連載して、つい最近完結しました。少年画報社から出ていたんだったかな。長谷川哲也さんの作品で、タイトル通りナポレオンやフランス革命を中心とした話ですが、ナポレオンと対決するオーストリアの外交官のメッテルニヒやイギリスの軍人もピックアップされているんです。ナポレオンってある意味勝ち続ける天才なんですけど、そのナポレオンをどうにかしようと苦心する他国の人の話もすごく面白かった。それでフランスの周りの国のほうに興味がわき、メッテルニヒの伝記を読んだりしました。ひょっとしたらフランスよりもフランス革命に影響を受ける周りの国のほうが面白いんじゃないかと思い始め、それが今回の『伯爵と三つの棺』に繋がっている感じです。
――大学時代、ご自身で小説は書いていたのですか。
潮谷:純文学みたいなものを時々書いていたんです。でも、純文学は落としどころが見つけづらくて、全体像が作り上げられなくて。書き始めてもこれをどうしたらいいのか分からなくて、断念しました。
――純文学的な作品はいろいろ読んでいたのですか。
潮谷:有名どころでいうと堀辰雄さんの『風立ちぬ』とか。海外でいうとヘルマン・ヘッセの『デミアン』や、ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』とか。どちらかというと、海外文学はスケールが広いものよりも、わりと人間関係の狭いところで完結している小説のほうが好みだった気がします。
それと自分で書いていたものでいうと、酒見賢一さんの日本ファンタジーノベル大賞受賞作の『後宮小説』を読んだら面白かったんです。あれは中国のような架空の国の話ですよね。ああいう感じでいろんな要素を入れたものが面白いと思い、中国風の世界で、ガンダムみたいなロボットが活躍する話を書き、一回酒見さんと同じ日本ファンタジーノベル大賞に送ったことがあります。それが大学卒業ギリギリの時期でした。
――中国風の世界でガンダムみたいなロボットが出てくるって、いったいどんな話なんですか。
潮谷:アニメの「ガンダム」がずっと好きだったんですね。あれはいろんなシリーズが出ていますが、確かその頃の最新作が「∀ガンダム」だったんですよ。地球の文明が衰退して、ほとんど中世くらいの文明に戻った世界が舞台で、衰退する前に月に逃れた人たちが戻ってきて悶着が起き、そこで地球に隠されていたガンダムが見つかる、という話でした。中世風の風景の中にガンダムがいて、牧畜の牛などを運んだりするシーンがあったりして、それが面白かったんです。その影響を受けました。やっぱり自分は結構、読んだ小説やエンタメに影響を受けていると思います。
ミステリーを読み始める
――卒業後は就職されたのですか。
潮谷:はい。図書館司書の資格を取って、派遣のような形でいくつかの大学図書館を移りながら10年くらい働いていました。そこで結構、働いている図書館の本を借りることができたんです。普通の図書館にはないような歴史関連の本を借りることができたので、ちょっとずつ勉強しました。ただ、小説を書く時間はなかなかなかったので、いつか書きたいと思いながら、行き帰りのバスの中でアイデアをメモ帳に書いていました。
――読書はいかがでしたか。
潮谷:大学卒業くらいの時期からようやく推理小説を読むようになって、自分の書きたい小説も変わっていきました。
まわりに推理小説を読む人が結構いたので自分も読んでみようと思っていた頃、「本の雑誌」の今月の一冊を紹介するような欄で、麻耶雄嵩さんの『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』が紹介されていたんです。普通のミステリーとは全然違う、みたいに紹介されていたので興味を持ったのが、推理小説をはじめて読んだきっかけでした。
読んでびっくりしました。とんでもない作品だと思いました。それまで、ミステリーは映画とか、夜10時45分になるとみんな崖に集まるのがお決まりみたいな2時間ドラマでしか知らなかったんですけれど、『翼ある闇』はもう定石を全部外しているような作品で。こんなのもありなんだ、こんなに自由なんだ、と思いました。ただ、『翼ある闇』ってたぶん、ミステリー初心者が読む小説じゃないような気が...。麻耶さんにお会いした時に「最初に読んだミステリーが『翼ある闇』でした」とお伝えしたら驚かれていたので(笑)。ただ、あの小説はミステリー入門としての役割も果たしていると思っています。出てくる殺人事件がクイーンの国名シリーズのような見立て殺人になっていたり、ディクスン・カーの密室講義を改良したような議論が繰り広げられていたりする。それで私もクイーンやカーといった作家がいると知り、海外のミステリーを読んでいきました。それと、解説で麻耶さんと同じ時期にデビューされた日本の作家も紹介されていたので、それで新本格の有栖川有栖さんや綾辻行人さんを知りました。なので海外の本格ミステリー黄金時代の古典と、日本の現代の新本格の作家を交互に読み進めていくようになりました。
――そのなかで、特に印象に残っているとか、影響を受けたと思う作品はありますか。
潮谷:カーだと、『三つの棺』はやっぱり自分の新刊のタイトルにもひっかけたくらいですし、好きですね。内容は全く違うんですけれど。あの複雑なプロットをすごく綺麗にまとめているなと思います。クイーンはやっぱり国名シリーズがすごく好きだったんですけれど、いちばん好きなのは『中途の家』ですね。
有栖川さんも国名シリーズの影響を受けておられますが、そのなかで一番すごいなと思ったのは『スイス時計の謎』です。短篇集ですけれど、表題作のロジックがすごく面白くて。なのでクイーンや有栖川さんからは、ロジックによる犯人当ての楽しさを学んだ気がします。
――潮谷さんの作品もロジカルですよね。
潮谷:ミステリーで一番好きな要素はロジックではないかと思います。
それと、カーなんかは話の組み立て方がすごく上手いんです。書評を読むと、カーでも「これはミステリーとして駄作ではないか」と書かれている作品もあるんですけれど、それでも話自体は面白い。コント的なものやラブストーリーなど読者を飽きさせない要素を入れていて、惜しげもなくなんでもやる作家だなと感心しています。
綾辻さんは最初に読んだのが『時計館の殺人』で、あれは有名なトリックが使われていますけれど、あのトリックを読者に思い浮かべさせないように書かれているのがすごいと思うんです。読んでいる時に全然そこに頭がいかなかったですね。読者の思考の誘導の仕方が素晴らしいなと思いました。『十角館の殺人』もいうまでもなく衝撃の作品です。
――歴史とミステリーを絡めた作品は好きでしたか。
潮谷:カーの歴史ミステリーでいうと、『ビロードの悪魔』ですね。現代の大学教授が悪魔と契約して過去にタイムスリップし、過去の世界で現代の知識を活かして無双する。今だとどこの"なろう小説"かっていう感じの作品をもう何十年も前に書いているのがすごくて。しかも悪魔との契約の内容に犯人捜しをする手がかりになるものがあったりして、今でいう特殊設定ミステリーの要素も入っているんだから、とんでもないですよね。
あと、カーの歴史小説でいうと『喉切り隊長』にも影響を受けました。これはナポレオン時代の話なんですけれど、ナポレオンがイギリスに軍を送り込む予定でいたところ、その軍の中で喉を切られて死ぬ人が続出する。喉切り隊長と呼ばれるようになったその殺人鬼を捜査官が捜していく話です。それは意外な犯人ものだったりするので、楽しく読みました。
――ハウダニットやホワイダニットより、フーダニットに惹かれますか。
潮谷:そうですね。特に歴史ミステリーの場合は、現在の人とはものの考え方とか文化が違うので、そういう要素を利用して現代では使えないロジックを使ったフーダニットにしたものが面白いな、と思っています。
――そしてご自身でもミステリーを書きたいと思うようになり...。
潮谷:はい。それと、自分で物語の世界観を作ってみたくなりました。大学卒業前後に田中芳樹さんの『アルスラーン戦記』や『マヴァール年代記』なども読んだんです。どちらもすごいなと思ったのは、たとえば『アルスラーン戦記』は古代ペルシャ風の世界、『マヴァール年代記』は中世ハンガリー風の世界という、なかなか舞台には選びそうにないところを選んでいて、しかもその設定がしっくり頭に入ってくる書き方をされているのが巧みなんですよね。
同じ頃、森岡浩之さんの『星界の紋章』という作品も読みました。これは大ヒットして、今でも5年、10年くらいのスパンで続刊が出ています。地球の人類が滅びた後の未来に、遺伝子操作を受けた新人類が銀河帝国を作っていく話で、すごく設定マニアな作品なんです。森岡さんは作品内で使われる言語とかも自分で考えてノートにびっしり書いているという逸話のある方です。そういう作品世界を自分で作り上げていくのが、すごく面白いんじゃないかと思っていました。
SFからも影響を受ける
――やはりSFもお好きだったんですね。潮谷さんの『時空犯』はタイムリープものですし。
潮谷:SFでいちばん影響を受けたのは『星界の紋章』ですね。宇宙で戦争をする王道中の王道のSFです。そこから、たとえばジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』を読んだりもしました。
他に影響を受けているのは、やっぱり森博嗣先生。現代の科学でできないことは書いていないけれど、発想がSFといいますか。たとえば『すべてがFになる』は20年近く前の作品なのに、VR空間が出てくるんですよね。ロボットとかも出てきて、ああいう地に足のついたSFも面白いなと感じます。
定番でいうと、小松左京さんの『果しなき流れの果に』も好きです。あれはタイムスリップしますね。
タイムリープでいうと、すごく影響を受けた作品が1冊あります。富士見ミステリー文庫のライトノベルなんですけれど、田代裕彦さんの『シナオシ』です。20年くらい前の作品なのかな。これがタイムリープものなんです。わりとページ数は短いんですけれど、ものすごく斬新なことをやっているんです。ある人物が人を殺してしまうんですけれど、そのことを後悔してもう1回やり直したいと思う。それで超常的な存在にやり直す機会をもらい時間を遡るんですが、遡った先で、本人ではなく別の人物の心の中に入ってしまう。しかもそのせいで、自分が誰だったのか、自分がどういう事情で誰を殺してしまったのか分からなくなってしまう。とにかく殺してしまうことだけは憶えていて、乏しい材料の中でなんとかもとの自分が誰かを殺すのを止めようとするんです。というものすごく面白い発端の話が、300ページくらいでまとまっている。構成もすごく美しくて、こういうのを自分でも1回書いてみたいと思ったことが、『時空犯』に繋がっています。
――面白そう。
潮谷:それとSFでいうと、はずせないのが上遠野浩平さんの『ブギーポップは笑わない』。これも一世を風靡した作品で、ミステリーを読み始めた頃に知りました。
怪物みたいなものが出てきて事件が起きる話ですが、それを一気に書かずに、関わった人たちの群像劇になっているんですよね。第一話はほとんど関わっていない人の目から見た話で、第二話は変なことが起きているとちょっとだけ理解している人の視点で、また同じ時間軸から話が始まる。第三話あたりでわりと深く関わっている人を出して、最終話で事件を解決したの人の視点になり、全体を通してこういう話だったのかと分かる。ああいうミステリーの手法をライトノベルでやったのって、上遠野さんが初めてなんじゃないかと思って。だから私以外にもいろんな人に影響を与えていると思います。少なくともこれを読んだら、自分も一回は群像劇を書きたいと思うんじゃないかな、と。
それと、『翼ある闇』をきっかけに講談社ノベルスをいろいろ読むようになり、メフィスト賞という存在も知りました。講談社ノベルスで書いておられた西澤保彦さんは特殊設定の元祖なんじゃないかと思いますね。西澤さんが書かれているもので影響を受けたのは、「チョーモンイン」シリーズ。『実況中死 神麻嗣子の超能力事件簿』などがあります。これは超能力者の犯罪を取り締まっている組織みたいなものがある話なんですけれど、どういう超能力があるのかがリストになっていて、どれかの能力が使われた時点でセンサーみたいなものが作動して、「今この能力が使われました」と分かるんですね。この範囲内にこの能力が使われたから容疑者を捜しに行きます、みたいな感じなんです。あらかじめ特殊設定のルールみたいなものを読者にフェアに提示して推理をしている点は、他の作品にも影響を与えているんじゃないかなと思います。
なので講談社ノベルスからは多様な影響を受けていて、自分も講談社から本を出したいなと思っていた頃に、西尾維新さんがデビューされまして。
――西尾さんは2002年に『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』でメフィスト賞を受賞されてますよね。
潮谷:衝撃を受けました。森さんを読んだ時もすごく新しいと思ったんですけれど、西尾さんも新しいと思って、でも何が新しいのか自分では分析できなかったんです。この新しさが分からないとデビューできないんじゃないかと、いろいろ悩みました。
――当時、読書記録をつけて、この作品のすごいところはここだ、みたいな分析をノートに書いたりしていたのですか。
潮谷:わりと書いていたんですけれど、中断したりもして...。今回、このインタビューのお話を受けて部屋の中をさらったら、ある程度書いていたものが見つかったんですよ(と、ノートを見せる)。吉村昭さんの『仮釈放』を読んだ、などと書いてありますね。
――めちゃくちゃ細かく書かれてありますね...!!
潮谷:思えば、結構ノンフィクションも読んでいます。社会問題を取り扱っているものや、科学技術を取り扱っているノンフィクションが多いですね。
――科学技術といいますと、たとえば。
潮谷:わりと最近読んだものでいえば、渡辺正峰さんの『意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く』とか。人間が死んでからも精神が保存されるという話はSFでも書かれているし私も書いているんですけれど、この作者の方はそれを絵空事ではなく、ご自身が死ぬまでにその技術が実現して、永遠に電子の世界で生きられないかを真剣に考え、そのための方策をいくつも挙げて、どれが一番実現可能性があるかと検証しているんです。ちなみに講談社現代新書です。
――それって、潮谷さんの『あらゆる薔薇のために』に影響を与えたのでしょうか。あれは記憶にかかわるミステリーでしたよね。
潮谷:いや、この本を読んだのはあれを書いた後だったんですよ。書く前にこれを読んでいたら、『あらゆる薔薇のために』の内容がまったく変わっちゃったんじゃないかと思うレベルで斬新なことを書いておられます。