「これは自分の話だ」
――以前「季節のない街」のインタビューで、「最近読んだ『本心』はびっくりするぐらい面白かった」と話していましたね。そもそも、原作との出会いはどんなきっかけだったのですか。
『本心』との出会いは、忘れもしない2020年の夏でした。コロナ禍の真っただ中で、僕はその頃、映画の撮影で上海に滞在していました。もともと平野(啓一郎)さんの作品が好きで、2週間の隔離期間中に「今どういう作品を書かれているのかな」と調べていたところ、『本心』を見つけました。あらすじを読んで、あまりにも引きつけられるものがありました。まだ刊行前だったんですが、新聞連載がウェブで全て読むことができました。
『本心』にはコロナは描かれていませんが、アフターコロナが書かれていると感じました。読み進めていくうちに、いま自分が抱える言葉にならない不安、格差や貧困、自然災害、テクノロジーの進化やAI、家族についてなど、現代のあらゆる問題が肥大化した少し先の未来が描かれていて、とても強いインパクトを受けました。あまりにもリアルで面白かったんです。あの頃はコロナによってこれまでのあらゆる常識が崩れ、世の中が止まり、映画製作も止まり、真っ暗闇の中でした。これまで信じてきた映画というものが崩れていくような感覚がありました。これからどんな映画や物語を世の中に提示すべきなのか、全く分かりませんでした。そうした中で今作に出会った時、ああ、これだと感じました。
――原作を読んで「これは自分の話だ」と感じたそうですね。
「コロナ」によって世界共通言語が生まれたと思っています。あらゆる問題がグローバル化し、そのことが可視化されるようになりました。『本心』には自分たちがこれから経験すること、あるいは次の代が経験することが描かれていると思いました。自分の話であると同時に、同時代を生きる私たちの物語であり、「自分ごと」として世界中の人と共有できる物語になると感じました。
――朔也を演じるにあたって、どう気持ちを作っていきましたか?
近未来の話ですが、そこに時間という距離がありながらも、朔也の気持ちが嫌というほど理解できました。「これは自分の話だ」と思えたのはそのことによる作用が大きかったと思います。彼の不安や未来で置いてきぼりになっている気持ちが手に取るように分かりましたし、そこで迷子になっている感覚が自然と入ってきました。この感覚をどう具現化していくかを考えていました。
そしてこの映画を観る上で同じように観客の皆さんに思ってもらう必要があると思いました。いつどこで誰が見ても朔也のエモーションでこの物語を導けるような、感情のシンパシーで観客を引っ張っていけることを目指したいと思っていました。VFとの対面はまだ自分たちが経験していないことですが、そのシチュエーションにおいて、朔也の感情としてシンプルに体感していることに重きを置いていました。朔也のピュアな感情が残像として残ることで、この映画を余韻のある、シンパシーを感じる映画にしたいと思っていました。
――原作と映画の設定が違う点の一つに、朔也が感情的になると暴力を振るうというシーンがありました。他人が傷つけられている場に出くわすと、カッとなって怒りを抑えられなくなってしまうのは、朔也の優しすぎるが故の性質なのかなと感じました。
朔也に暴力性を持たせることについて、石井(裕也)さんと何度かやりとりがありました。僕は当初反対していたのですが、石井さんとしては、朔也の胸の奥底に秘めた激情を押し殺して中産階級的な若者の個人的な苦労のような物語にしたくないと。没落や破滅と常に紙一重のところにいて、その不安定な対場で葛藤している、無関心を装って自分だけの正しさの中で生きる若者ではなく、生きることを勝ち取ることをあきらめないことを、朔也の肉体で主張することを暴力を潜ませることで表現したいと。その上で、やってしまったことに対してどう対応していくかが人間なんだ、ということを未来の世界でやってみたいということであの設定が追加されました。
人間の領域が変わろうとしている複雑さ
――生身の人とVF、両方の母親を演じた田中裕子さんとのシーンで、特に印象深かったシーンを教えてください。
全部印象に残っていますが、やっぱりVFになった母との再会の場面ですね。おそらく数年後自分たちが経験するようなシチュエーションなのだと思います。人が人を作るというのは恐ろしいなと思います。そこに倫理や道徳が及ぶとは思えません。亡き人と脳内で再会するということは、僕自身もこれまで沢山考えてきましたし、そうした死の克服は人類が夢見てきたことだと思います。神の力を持つテクノロジーと共に生きることで人間の領域が変わろうとしている複雑さと、それでも再会できたという純粋すぎるほどの喜びは、心が震えるような感覚がありました。
――生きていた時もVFの時も、田中さんとは対面での撮影だったのですか?
全て対面で撮影しました。生きている時の母と、VFになった母の違いは、田中さんの演じ分けと後からのCG作業によってとてもアナログ的に生まれています。田中さんが朔也を翻弄するように母の愛情とAI的なものを混ぜ合わせて見事に演じてくださったと思っています。
人の「本心」はとても多面的
――テクノロジーが進化した先に、AIが暴走したり、ヴァーチャルに慣れた人々が犯罪をしたりしてしまうような世の中になったら怖いと思いながらも、さらに進化を続けている今の世の中をどう受け入れて、進んでいけばいいのかと考えます。本作のテーマの一つでもある「自由死」という選択も含めて、これから先の未来をどう考えますか?
テクノロジーによって「死」を克服する時代に入り、そこに自由死の選択も進んでいくことで、「なぜ人が生きるのか、なぜ人が死ぬのか」という死生観も変わってくるような気がしています。時にいまある道徳も倫理も通用しないのではと思ってしまいます。僕も今のところ恐ろしい想像しか生まれていないのですが、でもきっと、人間の欲望の先には正しい「選択」や「未来」も同時にあってくれると願っています。
――池松さんが今思う、自分と他者の「本心」との向き合い方を教えてください。
誰かの本心を知りたいという欲求はこれからも変わらないと思います。でも、やっぱり分かるはずがないですよね。だって自分の本心すら分からないですから。
――私は本作を見て「分からないままでいいのかな」と思いました。
そうですね。わからないことを前提として、他者の本心と向き合うことの誠実さに惹かれます。その人の「本心」もひとつだけではなく、複雑で多面的なものだと思います。その実態は、きっと一生分からないものかもしれません。
数年後の自分たちの実感が見えてくる
――前回は、川越宗一さんの『天地に燦たり』や山本周五郎さんの『ちいさこべ』をご紹介いただきましたが、最近おもしろかった一冊を教えてください。
柴崎友香さんの『続きと始まり』(集英社)があまりに素晴らしく、印象に残っています。コロナ禍をまたいだ数年間、別々の場所で暮らす男女のお話なのですが、小さな日々の変化を定点観測のように描写していて、その先にどういう続きがあって、どんな終わりと始まりがあるのかということを描いています。群像劇ではないのですが、接点のない3人の主人公たちが、最後見事に重なっていきます。その重なり方もとても素晴らしく、ネタバレになるのでこれ以上はお話しできないのですが、つながりの中で生きている私たちのこの世界の「続きと始まり」に余韻の深い感動を受けました。
――平野さんもそうですが、作家さんの想像力や先見の目にはいつも驚かされます。
作家という方々の感覚をキャッチして言葉や物語にする力はすごいなと思います。この世界に漂うムードや感覚をキャッチして作品にしていくと、数年後の自分たちが実感することが見えてくるのだと思います。そうした嗅覚や感覚が優れた方の描く本は、読んでいてとても同時代的な感動を味わうことができると思っています。