「大変なことを始めてしまった」
――元々ウェブ連載だった本書はもともと「言葉についてのエッセイ」という依頼で、世の中の言葉の使われ方に違和感があって、その定義を改めて考えてみる企画になったそうですね。
「大変なことを始めてしまったな」というのが、正直な感想でした。エッセイを書き始めても、最後までどうも定義をしもらしているような気がしていました。その中で何とかやってきたという感覚が強くあります。
――向坂さんは、小中高生向けの「国語教室ことぱ舎」を運営していますが、そこではやはり言葉の定義と関わる機会は多いものですか。
実は教える時にしているのは、言葉の説明であって定義ではないんです。説明をする時にしているのは、そのものが持っている性質について言いあらわすこと。それとは違って、定義をしようと思ったら、その言葉と書かれていることとがなるべく過不足なくイコールで結ばれるようにしたかったんです。
でも、そう思ってやってみると、イコールにはなかなかならずに難しい。そこで何かをボロボロと落としているように感じながら、なんとかやってきました。
――定義とは「世界とコミュニケーションをとろうとする試み」と書かれていましたが、これはどういうことなのでしょう。
定義をいろんな人に共有するとなると、それと同じ定義で実際に使ってもらうことまで考えます。すると、前もってにせよ、結果的にせよ、権威的なものが生じてしまう可能性がある。でも別にそれがやりたくて定義をしているわけではないんです。「これはこうである」と言いたいのではなくて、「こうじゃない?」「どうですか?」くらいのことを書いている感覚でした。それが暗闇に向かって投げかけをしているようで、コミュニケーションのようだと感じていました。
そして実際に定義をする時には、その言葉がどう使われているのかを考えます。すると世の中で起こっていることなど、言葉の外の現実について考えざるを得なくなって。そういう意味では、言葉を通じて世界のことを考えるような感覚でした。
「よい〜」について語らないルール
――定義という言葉には固定的で静的なイメージがありましたが、エッセイの考察を読んでいると、揺れ動く生き物のような印象を受けました。例えば、最初に「友だち」の定義をしますが、その後の回で修正していますね。改めて、なぜでしょうか。
最初のエッセイでは、「友だち」の定義は次のようにしていました。
「友だち:互いに親しみを抱いている関係の名前。ひるがえって、自分が相手に対して抱いている親しみを、相手もまた自分に対して抱いていてほしい、という願いを込めた呼びかけ。」
「恋人」であればお互いに確認が必要だし、「知り合い」であるということはすでに事実ですよね。一方、誰かに向かって「友だち」と言う時、それは呼びかけとして機能すると思ったんです。
でもその翌月頃に、ある人に「友達になってください」と言われる機会がありました。そこで自分のした定義を思い出したんです。すると「友だち」でいる状態を継続するという視点が抜けていたと思いました。実際に友達になった後に、それからどのように深く関わっていくかということを入れないといけない。そう考えて、次のように定義をしなおしました。
「友だち(訂正):関係をつづけることを約束しなくても、互いにわけもなく親しく思いつづけられる相手のこと。そして、これからそのような状態を継続したいという願いを込めた呼びかけ。」
我々は友だちとは長い時間を過ごさないといけないのですよね。
――他に定義が難しかった言葉はありますか。
「愛する」の定義は難しかったですね。ウェブ連載を単行本にする時に、定義しきれていないと思って、加筆修正しました。しかも、基本的に定義の中にその言葉を入れることは禁止していたんですけど、これだけは「愛」という言葉が入ることを許していて。今、自分で読んでもよくわからないんですが、次のように定義しました。
「愛する:愛のうちにあり、しかし愛によって愛から乖離したすべてのことをおこなわないこと。そして、愛のうちにある、そのほかのすべてのことを、できるかぎりおこなうこと。」
愛するという時に、愛そのものに尽くすことと人に尽くすことが乖離した形であるんですよ。愛というものは、わたしたちに直感的には愛に尽くすことを要求するんですね。でもそれを押し退け、何とか人に尽くすことを行うということなのではないかと思ったんです。それもまた愛の要求の一つであるのではないか、と。
――難しいですね……。
愛というと、人は「よい愛とは何か」と語ってしまいがちなんです。でもそれは愛の定義ではありません。そのように「よい〜」について語らないことが、この連載でいちばん大きなマイルールでした。
時には愛が悪いこともある。例えば、過保護なお母さんは子どもを愛しているのは事実ですが、その他者性を尊重していません。愛の行いというのは、そうなってしまいそうな自分をこらえることなのではないか。人を愛するためには、自ら愛に抗わなくてはならない。こういう矛盾した言い方をすることではじめて、愛の姿を表すことができると思いました。
ただ「愛する」については未消化なところもあったので、居残りが発生しまして、新しいエッセイ連載「愛がありふれている」(本がひらく)が12月に始まりました。今回は定義をするのではなく、愛に一見遠いと思われそうなことも取り上げて、それを書き集めていくことで、愛とは何かが見えてきたらいいなと期待しています。
言葉は考えるための手段
――本書のタイトルは『ことぱの観察』ですが、向坂さんが運営する国語教室の名前も「ことぱ舎」ですね。なぜ、こと「ぱ」なのでしょう。
これはかわいいからですね。「言葉」というと、やや威圧的な印象を与えることがあるようなんですね。(学校などで)詩の講座をやるような時に参加者の方に「わたしは言葉のことはちょっと...」と言われたりするんです。言葉というものに対して、苦手意識を持っている人が多い。でもそこは誤魔化して「ことぱ」といたしました。「いや、『言葉』じゃないからいいじゃん!」っていう。
――作文や読書が苦手な人も、気軽に参加できそうですね。そもそも向坂さんにとって、言葉とはどのようなものですか。特に詩における言葉とは。
わたしにとっては、言葉は考えるための手段です。頭の中ではいろんなことがつながり合って見えていたものが、いざ書き始めようとすると分量としてはすごく減って、一本の線になる。つまり、考えていたことと書かれていることがずれてきてしまう。でも書くことでしか、自分はどう考えていたか、本当にはわからない。そのずれているということまで含めて、自分で考えるための手段なんです。
詩にはエッセイのような理屈の筋道はありません。でも、詩には詩なりの理屈があるんですよ。めちゃくちゃでいいわけではない。ふだん暮らしている時にはあまり感じないような、イメージの上での必然性のようなものがあります。
詩は意味がある言葉でなくてもいいですし、意味がない詩があるということも、大事なことだと思っています。そんな詩の中でしか考えられないことがやっぱりある。その意味では、詩は自分が考えるための一つのチャネルです。
――本書でも、各エッセイの最後に詩が掲載されていました。
単行本にする時に、詩を書き下ろしました。この詩は定義というよりは、その単語をタイトルにした作品ですね。エッセイだけではまだ書き漏らしている部分があるような気がして、それをすべて拾えるわけではないんですけど、「わたしは詩ではこういう風に考えるんです」ということに、触れておきたかったんです。