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「〈ロシア〉が変えた江戸時代」書評 黒船より早く届いた北方の足音

評者: 有田哲文 / 朝⽇新聞掲載:2025年02月22日
〈ロシア〉が変えた江戸時代: 世界認識の転換と近代の序章 (歴史文化ライブラリー 613) 著者:岩﨑 奈緒子 出版社:吉川弘文館 ジャンル:歴史・地理

ISBN: 9784642306133
発売⽇: 2024/11/26
サイズ: 13×18.8cm/240p

「〈ロシア〉が変えた江戸時代」 [著]岩﨑奈緒子

 ペリーの来航を扱った狂歌〈泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず〉は、私たちに幕末のイメージを強く植えつけている。巨大な黒船の出現が、当時どれほど衝撃だったか。
 そしておそらく幕府はぼんやりしていて、泰平の夢をむさぼっていたに違いない。そんなふうに思い込んでいるとすれば修正が必要だ。少なくとも一部の幕閣や知識人たちは、とっくに眠りから覚めていたと、本書は教えてくれる。
 きっかけはペリー来航の約80年前。ある異国人から不穏な情報がもたらされた。「ルス国」の船が「かむしかってか」に集結し、「クルリイス」にとりでを築いている――。ロシアによるカムチャツカや千島列島への進出を伝えるものだったが、当時の日本の地理の知識ではちんぷんかんぷんだった。
 北方で何が起きているのか。学者やオランダ通詞らが分析を始め、知のネットワークができていった。中心にいるのは「加模西葛杜加(カムサスカ)国風説考」(通称「赤蝦夷〈あかえぞ〉風説考」)を書いた工藤平助で、前野良沢などの蘭学者や、老中の松平定信らがその輪の中にいた。彼らが西洋の書物や蝦夷地の調査を通じて「ルス国」の実態に迫っていく様子は、「プロジェクトX」の趣がある。
 その仕事ぶりの非凡さはロシアを超え、世界構造の解明にまで及んだ。欧州がアメリカ大陸やアフリカ大陸を支配するに至った経緯や、奴隷貿易の構図などが書物に記された。幕府は無知蒙昧(もうまい)のまま黒船を迎えたわけではないことが分かる。
 ページはそれほど割かれていないが、世界の興亡の歴史を知ることで、逆に「皇国」という自意識が強化されたという指摘も重要だ。それは「皇統が続く日本は神の国」という、ゆがんだ認識につながるものだろう。対抗できる知は、幕末に存在しなかったのか。さらに突っ込んで著者に聞いてみたくなった。
    ◇
いわさき・なおこ 1961年生まれ。京都大総合博物館教授。著書に『近世後期の世界認識と鎖国』など。