久永実木彦「雨音」 残酷な社会に暴力ではなく祈りで闘いを挑む者の姿を描く(第34回)
この連載始まって以来の青田買いになるかもしれない。
今回ご紹介したい作品は久永実木彦『雨音』(KADOKAWA)である。
本連載は「次の直木賞候補になりそうな作品」を取り上げる決まりになっている。本書は久永にとって初めての長篇で、これまでの単著はSFの賞である第55回星雲賞(日本短編部門)を受賞した表題作を含む『わたしたちの怪獣』(東京創元社)である。なので実力の程は見えないところがあるのだが、ぜひいろいろな人に読んでもらいたいのである。いい小説だと思うからだ。
東京都N**区にある奥石大学のカフェテリアで、映画研究会〈幻燈〉の面々が、コンクールに参加するための短篇映画は何を撮りたいか、と相談している場面から始まる。奥石大学は「いちおう東京都なのだけれど、隣接する埼玉県に属していると誤解されることも少なくな」いようなのどかな立地にあり、「偏差値は高くも低くもな」いが、「自分には他者とちがう特別ななにかがあるかもしれない」と錯覚しうるくらいには通過儀礼の厳しさを味わったことのない、ごく普通の若者が通っている。時は5月で「じきに梅雨がはじまることなど、だれも気にかけていな」い穏やかな天気の日である。だから語り手である〈ぼく〉ことスミヒコも、「遠くから花火のような音があらためてきこえた」ことなど気にもしない。
ここで章が変わり、録音された通話音声やウィキペディアの項目、SNS投稿や週刊誌の記事といった、第三者による記述で何が起きていたかが明かされる。花火のような音は銃声だったのである。後にそれは奥石大学銃乱射事件と呼ばれることになる。教員2名、学生29名が死亡することになった惨劇が、彼らのすぐ近くでまさに始まろうとしていたのだ。
脚本家を目指していた1年生の二葉さん、SF映画好きの同じく高科くん、2年生で頭脳派的キャラクターの杵島くんも、カフェテリアに侵入してきた殺人者によって、みんな命を奪われた。スミヒコは幸運にも難を逃れたが、同じ3年生のフジオは撃たれて脊髄を損傷し、下半身不随になった。銃という凶器による暴力は、いとも簡単に他者の人生を断ち切り、それまでの幸福を奪い取る。
撃たれる前の話し合いでフジオは、ドキュメンタリーを撮りたいと発言していた。スミヒコは〈幻燈〉部員から人生を奪い取った奥石大学銃乱射事件を撮ろうと提案する。自分だけが生き残ったという罪悪感も彼を衝き動かす。「整理されていない、いましか撮ることのできない混沌とした景色を撮ることに意味があるのではないか」と彼は思う。事件の犯人は生きて逮捕されることはなく、自ら準備した爆発物によって命を絶った。スミヒコがドキュメンタリー制作を思い立った時点で、未だ身元不明のままなのである。黒の上下で身を包み、やはり黒のペストマスクで顔面を覆っていたことからインターネット上などでは〈痩せ烏〉の異名が奉られていた。
撮影は開始され、インタビューはフジオから始まる。だが思いを語り始めた彼の口は途中で止まり、何も言えなくなる。この小説の中では、人が自らの感情に驚く場面が幾度か出てくる。自分が思っているよりも自分の心は複雑で、それを言葉にすることは難しいのである。結局ドキュメタリー制作はスミヒコとフジオ、幽霊部員だったキミドリさんの3人が共同監督という形式で進められていくことになる。
中断された人生を再起動させ、未来を取り戻したいという渇望がスミヒコの背中を押している。ただし見切り発車で始めた試みだけに、前途は多難だ。撮影を開始したときには見えていなかったこと、わかっていなかった問題が浮上して彼の心をぐらつかせる。
インタビューで話をしてくれた男性のひとりは事件で息子を失った父親だ。事件後、インターネットには無責任な流説が溢れ、中には〈痩せ烏〉と犠牲者の間にはなんらかの関係があったのではないかという陰謀論まで口にする者もいた。そうした連中に怒りを燃やしつつも父親は何もすることができない。すでに犯人はこの世にいないのだ。〈痩せ烏〉に殺された息子の人生は無意味だったのではないかという考えが、父親の心をさいなむ。そしてスミヒコたちに彼は問う。「この映画は、だれかを救うことになるのだろうか?」と。
この発言がされるのは物語の折り返し付近である。スミヒコたちの映画制作を通じて作者は、救済は容易に得られるものではないという厳しい事実をつきつけてくる。それと同時に、誰かを救いたいと願い、祈ることも肯定する。現実に足がついたところで純粋な思いの尊さを描こうとしているのである。辛いことが起きる物語ではあるが、根底にこうした思いがあるために、小説は美しいものになっている。暗闇の中にはどこかに細々とではあるが一条の光が差し込んでいる。
実はここまで紹介したのは、全体のあらすじで言えば2、3割程度にすぎない。撮影を進めていくスミヒコとキミドリの前に、ひとりの女性が現われる。名前はベニ、「苗字は、ない」と言う。ベニは極端な世間知らずで、スミヒコはたびたびその欠落に驚かされる。まるでそれまで見たこともなかったかのように専門店のハンバーガーに夢中になり、肉と脂の塊にかぶりつく。ベニの顔にはほとんど表情がなく、「どこまでも平らな胴体は女性的な起伏と無縁であり、手足は細長い枯れ枝のよう」「肌の青白さとあいまって、冥界の幽鬼のような昏い美しさ」をもつ、と評される。彼女に、スミヒコとキミドリは魅せられていくのだ。
『雨音』はベニの物語でもあるという側面を持っている。たびたび撮影に同行し、こどものような言動を繰り返す彼女の存在は暗い物語における唯一の光源であるかに見える。ベニが登場した意味が明かされる後半になると、小説の構造はより明確になり、太い線で輪郭は描き直されることになる。ベニは主題を補強する存在であり、象徴的な主題を具体的な像へ落とし込むための変換装置でもある。
全体を読み通して感じたのは、優しさを求める作者の思いが非常に強いということだった。世界は厳しく、辛いものだが、そこになんとかして平和や安寧を見出せないか、と常に考えているように見える。たとえひとときに過ぎなくても、穏やかな時間を過ごせれば人の心は幾分か癒えるだろう。その安らぎのために書かれた小説だと私は感じた。
久永は2017年に「七十四秒の旋律と孤独」で第8回創元SF短編賞を受賞してデビューした。前述した星雲賞の他に、やはり短篇の「黒い安息の日々」で第78回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞している。こちらの作品は悪魔を呼び出して世界を破滅させたいと願う高校生が主人公で、合唱による音楽小説になっている点に個性があった。推理小説として評価されたが、どちらかといえばホラーであろう。SF、ホラー、推理小説と、ジャンルにとらわれず執筆を行う作者が初めて手掛けた長篇が『雨音』という犯罪小説であったことに私は興味を覚えた。個人と社会の根本的な対立関係を犯罪という現象によって描くのが犯罪小説という形式である。『雨音』で描かれるのは残酷な社会に対して、暴力ではなく祈りで闘いを挑む者の姿だ。その試みが読者に届いたときに、世界を優しくするための何かが芽生えることを願う。誰かの心に届くことを願う。