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朝比奈あすか「温泉小説」 ほぐされる心はそれぞれ違う(第26回)

©GettyImages

少し欠けたところがある登場人物たち

 みんなちがって、みんないい。
 金子みすゞ風に書きだしてみたのは、朝比奈あすか『温泉小説』(光文社)を読みながら、しきりにすごいなあ、すごいなあ、と感心してしまっている自分がいることに気づき、この感覚をどう表現していいか、と考えたからだ。
 みんなちがって、みんないい。
 金子みすゞの意図とは違うと思うのだが、それがいちばんしっくりきた。そう、みんな違うのである。『温泉小説』は、収録作6篇にそれぞれ違う技巧が用いられた贅沢な短篇集だ。
 題名から、コンセプト優先の本という印象を受けた読者もいると思う。帯に書かれた紹介も「温泉ソムリエマスターでもある作者が幸せな孤独と満ち足りた解放を紡ぐ六つの温泉旅」だし。でもそれに収まらない魅力がこの本には詰まっているのである。

 収録作の初出は1篇を除いて小説誌「小説宝石」(光文社)である。だから雑誌掲載時にすべて読んでいたのだが、こうして単行本にまとまってみるとだいぶ印象も変わる。
 最初の「女友達の作り方」は、30代前半で派遣社員として働く主人公が初めて温泉バスツアーに参加するというお話だ。〈わたし〉こと宮辺はバスに乗り込んで、車内が高齢女性ばかりであることに驚く。ひとり参加のみという規定のあるツアーなのに、乗客たちは学生時代に戻ったかのような元気さで会話を交わしているのである。宮辺はそこに入っていけない。「さばさばと笑えるような話をしたいタイプだから、自然と気の合うのは男にな」るという人生を送ってきて、「ちゃんとした女友達ができた例しがない」のである。
 乗客の中で唯一話ができそうなのが隣席の高宇さんという年上の女性だ。中途の温泉施設でサウナに入りながら、宮辺は彼女と話す機会を得る。そこで高宇が語る女友達との作り方、「丁寧な努力のいる時間」の作り方という話がいいのである。考えたこともない視点を与えられて、宮辺は世界が一変したような驚きを味わう。
 作者は宮辺を少し欠けたところのある女性として設定しており、読者がその点に気づくようにも書いている。新卒で入った会社には、同じ職場に諸橋さんという女性がいた。同期だが浪人をして4年制大学を出ているので、短大卒の宮辺とは3つ違いだ。「ためぐちでいいよ」と言ってくれるのだが宮辺は「こっちが三つも年下であることを周りにアピールするためにもずっと丁寧語で話しかけ」るのである。それじゃ同性の友達はできない。

 次の「また会う日まで」の主人公・博も、読者に心根を見透かされやすそうな人物として描かれる。後期高齢者になった博は娘の知花から免許を返納するように迫られるが、頑なに拒み続ける。自分は慎重な運転者だと考えているからだ。妹の綾子は早々に返納をしてしまった。博は考える。ボランティア活動もして交友関係の広い絢子は「そのぶん世間の事象に振り回されやすいようだ」と。ん、この物言い、何かひっかかるものがある。
 後期高齢者は些細なことで怒りやすくなる、と知花に指摘された博はそのことをずっと引きずり続ける。「この先、自分が何をしても、何を言っても、その原因を老いに寄せられていくのだ。そういう決めつけは、いきつくところ、ひとりの人間から、人権を奪うのと同じではないか」と「ふつふつとした怒りに包まれてゆく」。読者は、あ、と思うだろう。
「女友達の作り方」と「また会う日まで」はこのように、主人公の性格が重要な因子となるキャラクター小説という共通点を持っている。高宇との対話が転機となる宮辺と違い、博に決定的な出会いは訪れない。温泉がらみであることをするのだが、自分で自分に振り回されて博は疲弊する。独り相撲のおかしさを、ペーソス溢れる筆致で描いた短篇だ。

読者を惹き付けるミステリー的な技巧

 私が最も気に入っているのは次の2篇だ。「おやつはいつだって」の視点人物・智子はカソリック系の私立女学校を卒業し、44歳になった現在も独身で母とふたり暮らしをしている。「わたくしたちの境目は」は妻に先立たれて1年が経つ勇造が主人公で、息子夫婦に誘われて温泉旅行に出かけるところから話が始まる。
 本書の収録作には、プロットにミステリー的な要素が使われていて、物語の終盤まで伏せられる事実があることが読者の興味を惹きつけるというものが多い。この2作がその最たるもので、「わたくしたちの境目は」では勇造の亡妻である初子がある時期から混浴温泉に入りたがるようになった、という事実の周辺情報が小出しにされているのが効果を上げている。混浴温泉を嫌がるようになった、ではなくて好んで入るように、というのがおもしろいではないか。「おやつはいつだって」は題名がフォークロックバンド・たまの楽曲(「ロシヤのパン」)から採られていることが冒頭で明かされるのだが、主人公がそれに執着する理由が初めはわからない。
「おやつはいつだって」の智子は母親との精神的な距離が近く、さながら歳の離れた姉妹のようである。智子にとっては母親が唯一無二の存在なのだ、ということが次第に判ってくる。収録作中で最も情報開示のやり方が成功している短篇で、母子関係の輪郭が少しずつ明らかになっていくにつれて、緊張が高まるのである。智子は果たしてどのような選択をするのか、という問いが宙吊りのままにされる。サスペンスの感覚をここまで味わわせてくれる短篇というのも珍しい。ミステリーのアンソロジーに採られても遜色はない作品だと思う。

「わたくしたちの境目は」で感心したのは会話だ。息子が仕事のため遅れてくることになった。勇造は息子の妻である瑠美子と5歳の孫の勇也と3人で東北新幹線に乗る。退屈しのぎに勇也がしりとりをしようと言い出し、それに付き合いながら勇造と瑠美子は会話を交わすのである。長くなってしまうので引用は控えるが、ここのリズム感が抜群なのでぜひご覧いただきたい。こんな風に会話を書けたら楽しいだろうな。
 こうした普通の会話が、勇造の家族像を浮かび上がらせるために置かれているということが次第にわかってくる。現在の日常を代表するものがしりとり混じりの会話なのである。その中に挿入される亡き妻・初子の思い出は、過去に伸びた時間軸の象徴だ。「妻の身体が内包していた、一瞬一瞬のちいさな記憶の煌き」に勇造は気づく。そして、遅れてかけつけた息子・良太郎と瑠美子が、朝日の中で「ひとつの塊のようにくっついて見え」るという奇跡のような瞬間を迎えて小説は終わる。塊という言葉を用いて濃縮された形で描かれる家族の歴史は読む者の心に感慨を呼ぶ。このくだりを読んで私は込み上げるものがあった。不意に美しい風景を見てしまったときにやってくる感慨だ。

「五十年と一日」は娘に勧められて断食合宿にやってきた照美が、50歳にして小さな人生の転機を見出すという物語で、意外なタイミングで大事なキーワードが出される。その不意打ちにしてやられた。最後の「島と奇跡」は会社の都合で2年間南の離島に住むことになった主人公の博光が現地見学にやってくるという話だ。南国特有のたゆたうような雰囲気が感じられる短篇だが、主題となる要素が他のものの中に紛れ込まされるという技巧が使われている。それらを掻き分けて小説の本当の姿が浮上してくる終盤の速度と心地よさよ。

 たしかに温泉が人々の心をほぐしてくれる、という連作短篇集ではある。だが、ほぐされる心はそれぞれ違う。人の心はみんな違うのだ、という本だと言ってもいいくらいだ。
 みんなちがって、みんないい。やはりそういう1冊だと思う。