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歌人・馬場あき子さんが語る学徒動員 「言葉は翔べど戦争は止まず」

中島飛行機の学徒動員の合間に撮影。上着だけセーラー服に着替えている生徒もいる。中央列右から2人目が馬場あき子さん=馬場さん提供

 歌人の馬場あき子さん(97)は太平洋戦争末期、学徒動員で戦闘機に取り付ける発動機(エンジン)の台座を作っていた。空襲が激しさを増すなか、ともに旋盤を回した友人から長唄を教わり、心の中で口ずさんだ。戦後80年を迎えた今年、体験を語ってもらった。

 《ジュラルミンの熱き切子(きりこ)を返り血のやうに浴びて造りき特攻機エンジン台座》

 昭和高等女学校の5年生だった1944年、中島飛行機武蔵製作所(現東京都武蔵野市)に動員され、六尺旋盤を回すようになりました。六尺は約182センチで、大きな機械よ。戦争末期だったから、特攻機のエンジンの台座だったかと思うと罪深い思いがしますね。

 台座は楕円(だえん)形で丸い穴が開いていて、ぴかぴかのジュラルミン。旋盤に取り付けられた刃物に角度を合わせ、回転させながら角を取っていると、金属の破片を返り血のように浴びて、ほんと熱いんです。

 動員先には大学生のお兄さんたちがいましたが、「親切に一生懸命教えてくれるけど、決して好意を持ってはいけません。兵隊さんとして戦地に赴く人たちです」って教えられたの。戦争中、恋愛されたら困るでしょ。相手は戦死してしまうかもしれないから。

 《八時間旋盤まはしし女学生の足はほてりて象の足なり》

 8時間立って旋盤を回していると足が太くなっちゃうのよ。歩けないくらい重たいの。井戸水をたらいにくんで、足を入れて冷やすんです。

 昼夜3交代勤務で、一番つらいのが夜中の12時から朝8時まで。眠気との闘いです。機械の部屋の窓には幕が張られているから見えないはずなのに、真っ暗な空を見ていた記憶があります。トイレの窓から見ていた空かもしれない。

 だんだん白んでくると、虚無的な灰色の空がずーっと広がって。どうしようもない絶望感に襲われた。途中から寮暮らしとなり、親とも会っていないし、爆弾が来たら死ぬ。もうどうなってもいいんだと。

 巨大な軍需工場だったので、空襲警報が鳴ると、工場の3階から駆け降りて地下道の通路に避難する。爆風で飛ばされた子もいるし、亡くなった人もいます。

 《軍国の少女のわれが旋盤をまはしつつうたひゐし越後獅子あはれ》

 そうしたなか、休憩時間に、長唄の名取になっていた同じ学校の友人が「軍歌ばかりはいやだから」と長唄「越後獅子」を口三味線で教えてくれた。当時「遊芸禁止」とされていたんですから、ある種の抵抗ですよね。旋盤を回しながら心のなかで唄(うた)っていました。

 戦後、能の喜多流宗家に入門して気がついたのよ。厳正な家元について習ったからこそ、空襲のさなかに口移しで友人から教わったのも文化の伝達だと。人間国宝のような偉い人の教えだけが文化の伝達じゃないんです。「越後獅子」は、いまも唄えますよ。

動員先で友人から教わった長唄「越後獅子」はいまも歌えると話す馬場あき子さん

 45年3月に動員が終わりましたが、4月13日の空襲で高田馬場の自宅が全焼。同じく全焼した日本女子高等学院(現昭和女子大学)に進学し、寺の本堂で授業を受けました。

 あの終戦の日から80年。いつの時代でも犠牲になっているのは市民です。私は歌人だから、戦争に対して歌を詠むことしかできないけれど、歌を通して心だけは残しておきたい。

 《翼なけれど言葉は翔ぶと思ひしか言葉は翔べど戦争(いくさ)は止まず》

(構成・佐々波幸子)=朝日新聞2025年8月27日掲載