ロック批評の現在地 「自分語り」を乗り越えた先には スージー鈴木
渋谷陽一が亡くなった。これを機に彼が音楽評論家として鮮烈な活躍をした当時の記憶を通して「ロック批評の現在地」を考えてみたい。
渋谷陽一最大の功績は、ロック評論がまだ、遠い国の音楽の情報をいち早く知らせる「情報業」だった中、「ロックそのものではなく、ロックに触発された自分を語る」という手法の確立にあった。
レッド・ツェッペリンの名盤「プレゼンス」(1976年)のライナーノーツに「全く申し分ないツェッペリンの巨大な音を前に、僕はひたすら自分が開かれていくのを感じる」と書ききっている。明らかに主題はツェッペリンではなく渋谷陽一本人なのだ。
また、マニア志向にならず、自ら書いた文章、自ら創刊した雑誌「ロッキング・オン」を、読者に確実に「開く」技術と情熱に長じていた。
創刊メンバーでもある橘川幸夫の『ロッキング・オンの時代』(晶文社・1760円)には、とにかく1冊でも多く売ってやるという、編集長・渋谷陽一の底知れぬ執念が赤裸々に描かれている。
批判もあった。忌野清志郎は『ロックで独立する方法』(新潮文庫・781円)において「話題になるのは歌詞の内容ばっかりだったりね。音楽評論ていうより文芸評論みたいだ」と書いている。さらに渋谷陽一本人に「死ぬほどロック聴いてるのに、なんで音楽のことを訊(き)かないんだ?」と「文句」を言ったとも。つまり、歌詞だけではなく、コード進行や録音も含めた音楽全体をまるっと評論してほしいと訴えたのだ。
こうした批判をおそらくは知りつつも、渋谷陽一は徐々にビジネスの世界に軸足を移し、出版社社長として、後年は音楽フェスのプロデューサーとして成功していくことになるのだが。
さて今。「ロック批評」はどうなっているのか。
私にはある種、渋谷陽一以前に戻ったように見える。「情報業」への回帰。ある音楽家の最新情報を、その音楽家を「推し」とする層に届けるお仕事。そこで、ロック批評の再活性化を考えるとしたらという前提で、ヒントとなりそうな2冊を紹介する。
1冊目はマキタスポーツ『すべてのJ―POPはパクリである 現代ポップス論考』(扶桑社文庫・オンデマンド版2189円)。白眉(はくび)は、歌詞だけでなく、コード進行や楽曲構成まで含めた「構造分析」にまでアプローチしている点だ。
書き手の感覚によった観念論に対する唯物論的な評論としての「構造分析」は、未(いま)だ新しく、かつ楽しい。Jポップやロックの評論の中でも、もっと一般化されていい。
2冊目は輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書・1045円)を。
「演歌は日本の心」という言説が実は作り出されたもので、概念としての「演歌(艶歌〈えんか〉)」が案外最近、1970年前後にふわっと生まれたという事実を実証的に追っている。先入観を排除して音楽史を見つめることの重要性が伝わってくる。
転じて、ロック界に根付いた、歪(ゆが)んだ歴史観を修正する必要性をここで主張したい。例えば、日本のロックの源流を一つのバンドに結びつける「はっぴいえんど中心史観」や、GS(グループサウンズ)やキャロル、吉田拓郎らの功績の矮小(わいしょう)化を、私は問題視してきた。
これら歪んだ歴史観を修正する評論を。ロックの聴き手により広い選択肢を、よりフラットに広げるために。という意味での「ロック批評」再興に向けて、微力ながら貢献していきたいと思っている。「音楽評論家」という古めかしい肩書を未だ掲げている身として。=朝日新聞2025年8月30日掲載