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「ツイてる」「ツイてない」 千早茜

 遊びにやってきた友人が「最近、ツイてない」とこぼした。些細(ささい)なミスが続いたり、詐欺に遭いかけたり、息抜きの趣味もうまくいかず、家にいても調理器具が落ちてきて頭を直撃したりする。果ては電車とホームの間に落ちたそうだ。友人は相談ではなく報告という感じで話していたので「うんうん」と聞いた。そもそも相談されても不運への具体的な対処法など浮かばない。「それはツイてないね」と共感を示して、あれ?と思った。不運に見舞われながらも大事にはならず、自力で歩いて遊びに来られているのなら、ある意味「ツイている」のでは。そう言うと、友人も「確かにそういう見方もできるか。なんだかんだ無事で、いま生きているもんな」と表情が変わった。

 友人は納得したようだったが、私は彼女が帰った後もなんだか気になった。では、危機回避ではなく本当に「ツイている」状態とはどんなものなのか。宝くじを買えば当選し、食事に行けばおまけしてもらえて、欲しいものにはすぐ出会え、頭は冴(さ)え渡り仕事がうまくいく。その程度しか想像できなかったが、怖い、と思った。うまくいきすぎている。良いことが続くと不安になる。思えば、連続でゲームに勝った時も、商店街の福引で一等を当てた時も、直木賞を受賞して「おめでとう」でメール履歴が埋まった時も、嬉(うれ)しいのに逃げだしたいような気持ちになった。きっと私は「大事にならない程度にツイてない」くらいが標準で、過度な「ツイている」は受けとめるのにエネルギーを必要とするタイプなのだ。できることなら、過度な不運も、過度な幸運もなく、なだらかな日常が続いて欲しいと思う。良いことも悪いことも、堪(こた)えるのはその事実よりも普段の状態との落差な気がする。平常運転を乱されたくないのだ。二十代や三十代の頃はそんな自分を面白みのない人間だと感じていたし、そう思われることが怖くもあった。けれど、今は平穏がいい、と心から思う。人からは退屈に見える日々が執筆には最適なせいかもしれない。=朝日新聞2025年9月10日掲載