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年輪のように刻み込まれたこと 舘野泉

イラスト・ゆりゆ

 山本周五郎の小説が好きで読み耽(ふけ)ったのは1970年代から80年代にかけて。代表作に挙げられる『樅(もみ)ノ木は残った』や『青べか物語』などである。他にもたくさん読んだがなにしろ半世紀も前のこと。間もなく私も90歳になるし、大抵のことは忘れてしまった。蔵書もかなり紛失している。ただし、読んだことはすべて忘れてしまったかもしれないが、大事なことは自分の中に年輪のように刻み込まれ、生きていくのに少なからず影響を与えていると思う。

2組の夫婦関係

 読んでから50年は経っているのだが、周五郎の短編で妙に記憶に残っているものがある。短編集『季節のない街』(新潮文庫・825円)所収の「牧歌調」だ。増田益夫と妻の勝子、河口初太郎と妻の良江という、2組の夫婦の話である。

 益夫と初太郎はともに日雇い労働者で、特に仲が良いわけでもないが、ある夕方、増田は河口の家へ、河口は増田の家へ、自分の家に帰るように自然に別れていく。翌朝2人は、いつものように待ち合わせ一緒に仕事へ出かける。勝子と良江も水仕事をしながら会話を楽しんでいる。

 2組の夫婦が時に相手を交換しながら仲良くつきあい、いつのまにか元の組み合わせに戻っていく。何事もなかったかのように。世の中にはこんな不思議な話が沢山(たくさん)あるのだろうか。

 NHK連続テレビ小説で9月に始まる「ばけばけ」が話題になっている。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻セツをモデルにした物語。実際の八雲は伝え聞いた怪談をセツに読ませて、英語で自分の文章を練っていたようだが、セツには棒読みではなく、常に自分の言葉で空で話すことを要求したという。

 実をいうと私が小泉八雲の怪談の世界に触れたのはフィンランドの作曲家で友人のペール・ヘンリク・ノルドグレンのピアノ曲を通じて。10の怪談をモチーフにした「小泉八雲の怪談によるバラード」のうち、衝撃的な「耳なし芳一」が最初の作品で、72年の初演は仙台であったが、以来50年余り彼の「怪談」を弾いている。

演奏は「語り部」

 『小泉八雲集』(上田和夫訳、新潮文庫・935円)は手軽に読める怪談集で、収録された「衝立(ついたて)の乙女」は不思議な話だ。京都に住む若い書生が衝立に描かれた美しい女に恋をしてしまう。遂(つい)には恋の病に伏せてしまうが、その女に名前をつけて呼び続けると女が絵から抜け出てくる。そうして2人は生涯幸福な生活を共にし、衝立の女の姿があった場所はいつまでも空白であったそうな。

 ノルドグレンの「怪談」を弾くと常に強い生命力が漲(みなぎ)る。いつの間にか私は八雲―ノルドグレンの語り部になっているのかもしれない。八雲はカトリックから離れ輪廻(りんね)転生を信じた。ノルドグレンは晩年無宗教者として教会を離れ、今は西フィンランドの野原の白樺(しらかば)のもとに眠っている。

 語り伝えといえば『フィンランド叙事詩 カレワラ』上・下(小泉保訳、岩波文庫・各1507円)がある。かつて文字を持たなかった民族が残した語り部による膨大な伝承詩で、鍛冶(かじ)職人イルマリネン、荒くれ者レンミンカイネンなどが登場する。19世紀初頭から収集されたカレワラは民族の誇りを高め、遂には1917年のフィンランド独立への大きな力となる。

 カレワラに想を得たシベリウスの交響曲「クッレルヴォ」では、若くして家を飛び出したクッレルヴォが雪の野で若い娘に出会い、橇(そり)の中で陵辱してしまうが、娘は自分の妹だったと知る。嘆きのあまり2人とも自死する悲劇は韻を踏んだ詩で強く歌われる。この5月にシベリウスのクッレルヴォは札幌で当地初演され大きな感動をよんだ。言霊はどこまでも響いていくのである。=朝日新聞2025年9月13日掲載

 ◇たての・いずみ ピアニスト 36年生まれ。「左手のピアニスト」として委嘱初演を続ける。

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 著名人や識者が気になる本を紹介します。随時掲載します。