ある夜、二十二時頃だった。夕方の仕事を済ませてごはんを食べてのんびりテレビの録画を見ていた時間帯のことだった。ドゴッ、ドゴッとベランダの掃き出し窓に何かが当たる音がした。窓の近くに寄ってみても、なんであんな変な音がするのか暗いのでわからない。
それで恐る恐る窓を開けた。何か黒と茶色の混ざった、親指を二本合わせたぐらいの存在感のあるものがブーンと部屋に飛び込んできて、わたしはギャーと叫んだ。ドゴッの正体は、部屋の隅の床に置いてあるルータと部屋の角の間の埃(ほこり)が溜(た)まっている隙間に入り込み(お恥ずかしい)、ひっくり返ってどうにもならないようだった。ドゴッ行為のダメージもあったのだろう。足はもがくように動いていた。その時点で、これはセミか……、とわかった。殺虫剤を持っていなかったので、コバエの忌避スプレーをかけると、ちょっと動きはおさまったが、でも確かに生きている。
仕方なく、ゴミ袋を持ってきて、袋越しにひっくり返っているセミを拾って袋に入れて、ベランダに解放した。セミはやはりひっくり返ったままどうにもならないようだった。とりあえず、ベランダからも出ていただきたいと思い、風呂洗い用の柄付きスポンジの柄を使って排水のための溝に転がして、ベランダの隙間から外に追い出そうとしたのだが、うまくいかない。
そのままにしておく事も考えたが、ベランダで死なれてもやはり大変なので、結局またゴミ袋を持ってセミをしまい、近所の公園に出かけて、木の近くに解放した。セミは何よりも、埃をどうしたらいいのかわからない様子だった。時刻は二十三時を回っていた。
一時間も部屋の中のセミと向き合って疲れ果てたのか、そのまま歯を磨いていったん寝た。今もあの疲れが残っているような気がする。あれから毎日、二十二時になると、今日は部屋にセミがいない、と思う。だから今日はいい日だ。=朝日新聞2025年9月17日掲載