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「涙の箱」書評 世界のために泣けることの強さ

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2025年10月25日
涙の箱 著者:ハン・ガン 出版社:評論社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784566024892
発売⽇: 2025/08/18
サイズ: 12.8×18.8cm/88p

「涙の箱」 [著]ハン・ガン

 他者の痛みと苦しみを前に何もできずにいるとき、泣くことを自分に禁じることがある。当事者ではない自分が簡単に泣くわけにはいかない、自分にその資格はないと。感傷に溺れることは自己満足で、泣くだけではいけないのだと。それはひとつの、抑制的な態度のあり方かもしれない。けれどハン・ガンのこの本は、涙を肯定している。
 主人公は、〈涙つぼ〉と呼ばれている一人の子ども。その子は世界の美しさや何気ない出来事、人の優しさや悲しみにふれるたび、涙を流す。
 子どもはあるとき、〈青い明け方の鳥〉とともに、純粋な涙の粒を求めて旅するおじさんと出会い、彼らに同行することになる。やがて彼らが辿(たど)り着いたのは、涙を流すことのできないお爺(じい)さんの家だった。
 泣き虫であることを恥じていた子どもと、泣くことのできない大人。彼らの出会いが、涙の意味を変えていく。
 自分のために、他者のために、世界のために流す涙。涙をこらえているときに、ひっそりと影の流す涙。何もできず、何も言えなくても、そうした涙を流すことは、それ自体がひとつの行為なのではないか。哀悼と、応答と、連帯の。
 痛みと悲しみを抱えた人たちの輪にそっと加わり、それぞれに前を向いていながらも、隣の人の影が涙を流していることに気づいている。そんな風に涙を流すとき、世界と他者の痛みは私の身体に浸透し、私の経験の一部になる。その痛みを、ずっと忘れないこと。
 旅の終わりに、おじさんは子どもにこう言う。
 「きみの涙には、むしろもっと多くの色彩が必要じゃないかな。特に強さがね。怒りや恥ずかしさや汚さも、避けたり恐れたりしない強さ」
 涙を流すこと、それ自体が強さでもある。目を背けずに、感情を殺さずに、自分のために、誰かのために涙を流すこと。それは私が私としてあり、私たちになるための、大切な行為なのだ。
    ◇
Han Kang 1970年韓国・光州生まれ。2016年、『菜食主義者』で国際ブッカー賞。24年、ノーベル文学賞。