才能か、家柄か。「ガラスの仮面」の視点を逆転させた「到達のアクタ」の現代性(第152回)
10月13日の時点で興行収入160億円を突破! 映画「国宝」が実写邦画の歴代興行収入で一二を争う快進撃を続けている。任侠の家に生まれた喜久雄は15歳のとき歌舞伎俳優・花井半二郎に引き取られ、実の息子である俊介と兄弟のように育てられた。血筋が極めて重視される歌舞伎界で、持って生まれた天賦の才だけでどこまで戦えるのか。「才能VS血筋」が大きなテーマとなっている。
この対比そのものは決して目新しいものではない。実に半世紀前の1975年(76年1号)から「花とゆめ」(白泉社)で不定期連載されている未完の大作、『ガラスの仮面』(美内すずえ)を思い出した人も多いのではないだろうか。
父はなく、母は町中華の住み込み店員をしている北島マヤ。一見平凡で取り柄のない少女だが、彼女は天性の演技の才を持っていた。一方、生涯のライバルとなる姫川亜弓は、映画監督と人気女優を両親に持ち、5歳から子役として活躍していた芸能界のサラブレッド。バブル前でまだ貧しかった昭和の時代には、すべてに恵まれた亜弓は憎い敵役にほかならず、多くの読者がマヤに感情移入したことと思う。
現在「ヤンマガWeb」(講談社)で連載中の『到達のアクタ』(信楽優楽)は、ひと言でいえば「姫川亜弓を主人公にした『ガラスの仮面』」だ。
天津アリサは誰もが知る大女優・天津亜希の娘であり、祖父も映画監督という家に生まれた少女。幼い頃から母のような女優になることを夢見ていたが、その母は小学校の学芸会で迫真の貧民を演じた黒川凪(なぎ)に一目ぼれし、娘のアリサを差し置いて芸能界にスカウトする。壮絶な生い立ちと圧倒的な演技力を持つ凪がどんどん頭角を表す一方、高校生になったアリサも芸能プロダクションに入り、ひっそりと女優への道を歩み始める。
この設定は非常に現代的だ。恵まれて見える者にも、恵まれた者なりの苦しみがある。歌舞伎界ならともかく、最近の芸能界はそれほど血筋が重視されない。親の七光りでデビューはできても、そこから先は本人の資質が大きくものをいう。社会全体を見ても実力主義が主流になり、出自や家柄は昔ほど問題にされなくなってきたように思う。大切なのは血筋よりも個人の資質。今の時代、才能とは血筋以上に特権的なものともいえるだろう。ドラマのような過去と天賦の才を持つ凪はまさに「選ばれし者」であり、偉大な親と比較され、期待にこたえられずに苦しむアリサのほうがむしろ共感を呼ぶ。
凪や亜希の方法論は、自身の体験や感情をもとにリアルな演技を目指す「メソッド演技」というもの。それに対してアリサが選んだのは、作品の背景を知り、物語の構造をつかみ、外側の情報から役にアプローチする「テクニカル演技」と呼ばれる方法論だ。メソッド演技のような憑依型の才能を問われない代わり、そこには受験勉強のような膨大な学習や分析力が要求される。
努力は才能を凌駕(りょうが)できるのか? 才能に挫折したアリサが、天才とは異なる道でリベンジしようと奮闘する姿は、特別な才能に恵まれなかった多くの人を力づけてくれるだろう。
アリサと凪が(映画の中で)「殺し合い」をする最新第2巻のクライマックスでは、アリサも凪に対する敵意や嫉妬を前面に押し出したメソッド演技で対抗する。かなりクセのある絵柄で万人受けはしないかもしれないが、魔物にとりつかれたような凪の演技描写は圧巻。極端な表現とそこから生まれる迫力に圧倒される。
作者・信楽優楽はこの新時代の演劇マンガをどこに“到達”させようとしているのか、しっかり最後まで見届けたい。