ISBN: 9784152104601
発売⽇: 2025/09/18
サイズ: 13.1×18.8cm/424p
「世界最高の辞典を作った名もなき人びと」 [著]サラ・オーグルヴィ
僕が英米文学を大学院で学ぶようになって、最初にたたき込まれたのが、古典文学の単語一つ一つの意味を、本書の主役であるオックスフォード英語大辞典(OED)で徹底的に調べることだった。質量ともに圧倒的な辞典を毎日目の当たりにするわけだから、ある疑問が湧いてくるのは避けられない。一体、誰がこの辞典を作ったのか?
その問いに見事に答えてくれる本書は、OEDという巨大プロジェクトが、1879年から1915年まで編纂(へんさん)主幹を務めたジェイムズ・マリーの献身だけでなく、無数の一般読者の協力によって支えられていたことを魅力たっぷりに教えてくれる。その読者たちは、各自が本を精読して単語の用例を小さな紙片に記入し、それを辞典の編纂室に郵送していたのだ。
歴代最多の16万個もの用例を送ったビール醸造業者の息子、カナダ北極圏の過酷な探検を生き延びた遠征隊員、報酬があるものと勘違いして請求したカール・マルクスの娘、果ては殺人を犯した者など、辞典の協力者の顔ぶれは多彩極まりない。辞典の形式を模してアルファベット順に語られる各項目は、そうした協力者の人となりや当時の生活について知ろうとする著者の、地道で徹底した調査とユーモアある知的好奇心の上に成り立っている。
そして何よりも、本書全体を通じて繰り返し浮かび上がるのは、「名もなき」存在であるほかなかった女性たちの姿である。編纂主幹の補佐を長期間務めた妻や娘たち、学術とは無縁の生活のなかで雨量計測とOEDのための精読に協力していた女性や、婦人参政権獲得運動を担った女性協力者など、辞典に多大な貢献をした無名の女性たちの努力は、個人のささやかな夢が時代の制約から逃れられないことを教えてくれる。21世紀に入り、授業の予習のためにOEDをめくっていた僕の時間は、そうした女性たちの人生とも交差していたのだ。
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Sarah Ogilvie オーストラリア出身の言語学者。OEDの編纂者を経て、英オックスフォード大教授として言語、辞書、テクノロジーの講義を担当。米アマゾンの研究開発部門ではKindleの開発にも携わった。