鴻巣友季子の文学潮流(第32回) 堀江敏幸「二月のつぎに七月が」の語りの技法が持つ可能性
秋の文学賞の結果が次々と発表されている。
英ブッカー賞は、ハンガリー系でカナダ出身のイギリス人作家デイヴィッド・サロイが「Flesh」で受賞し、全米図書賞は、ヨルダン生まれのレバノン系アメリカ人画家・作家のラビ・アラメディンの「The True True Story of Raja the Gullible (and His Mother)」に授与された。多和田葉子も最終候補になっていた米ノイシュタット国際文学賞は、ヨルダン生まれのパレスチナの詩人・小説家イブラヒム・ナスラッラーが受賞。1948年のナクバでエルサレムのアル・ブライジから追放されたパレスチナ人の父母をもつ。英米は移民・言語越境系の作家が強い結果となった。
フランスはというと、ゴンクール賞は、ローラン・モーヴィニエの3世代にわたるサーガ「La Maison Vide」(空の家)が、メディシス賞は、ロシアとジョージアの歴史を交錯させたエマニュエル・カレールの「Kolkhoze」(コルホーズ)が受賞。市川沙央が候補となっていたメディシス賞の外国語小説賞は、イギリス作家ニーナ・アランの「Les Bons Voisins」に授与された。
こうして見ると、多視点、多声性、記憶や歴史の混淆という要素を取り入れた作が目立つ。というわけで、今月は重層的な語りの妙が結晶した作品をとりあげたい。
小説とは「省略」のアートであり「延長」のアートでもある。2月のつぎに7月の描写が来ることもあるし、逆に「驚きのあまり一分が一日にも感じられる」こともある。言うなれば、プルーストは『失われた時を求めて』で時を伸縮する文体をあみだしたのだ。
しかし小説のテクストというのは――時間は伸縮できても――要約され得ないものだ。「つまり」「要するに」とまとめられることを拒む。堀江敏幸9年ぶりの長編にして726ページの大作『二月のつぎに七月が』(講談社)は、その最たるものだろう。
半官半民の青物市場に隣接した「いちば食堂」を中心とした群像劇である。3人称文体だが俯瞰視点ではなく、3人の視点人物が交替で登場する。その3人とは、食堂の給仕として働く丕出子(ひでこ)さん、同じく料理人の笛田さん、常連客の阿見さんだ。
隠退の身とおぼしき阿見さんは、年中同じ服装で、毎日ほぼ同じもの(カレー)を注文し、古ぼけた文庫本を読み、なにか書きつけ、午後の常連客と入れ替わりに引きあげていく。妻と娘のいる笛田さんは、社長のハラスメントめいた言動にあって前職場を辞め、元同級生の一場(いちば)の頼みでこの食堂を任されることになった。
ときに、堆肥をつくるコンポストから人体の一部らしきものが覗いていたとか、ここにはむかし牢屋敷があって血がたくさん流されたとか、そんな不穏な噂がちらりと差しこまれるが、なんということのない日々が過ぎていく。
阿見さんの父親は戦争で亡くなった。戦死と聞かされていたが、じつは病死だったという。阿見さんが読んでいる文庫本は、叔父から手渡された父の愛書だ。アンリ・フレデリック・アミエル『アミエルの日記』。彼はその文章の「未知のものに対する郷愁、名の無い熱、幸福の渇き、昔の灰の掻い立て、若々しい欲望の復活、翼のむず痒さ、春の樹液の上昇」といったリズムを味わいながら、一見関係のない日記を通して日本の戦争の、父の記憶を引き継ごうとしている。
あるとき阿見さんは、おまえはどうしていつも過去形でしゃべるんだ、と批判される。それは「断言は現在のためではなく、未来のためにある。自分が語りうるのはいつだって過去でしかない。メニューの注文ですら口にしたとたん、過去になり、<中略>伝える行為以外の内容は過去形になってしまう」という思いから来ている。
これは、書くこと・語ることについて、サルトルや文学理論家ドリット・コーンが言ったことの結果的な実践と言える。コーンは「人生が教えてくれるのは、私たちは生きながらそれを語り得ないし、語りながらそれを生き得ないということだ。いま生きよ、のちに語れ」と詩的に述べた。あるいは、サルトルの『嘔吐』でロカンタンはこう言った。「あなたは選ばねばならない。生きるか、語るかを<中略>私は自分の人生のいまこの瞬間が記憶にある人生の刻々のように整然と展開してほしい。(しかし)それは時間のしっぽを捕まえようすとるみたいなものだ」(以上鴻巣訳)と。
視点者の登場順は、章によって、阿見さん⇒丕出子さん⇒笛田さんとなったり、笛田さん⇒阿見さん⇒丕出子さんとなったりする。とはいえ、だれが視点者なのかは、村上春樹の『1Q84』のように明白ではない。本作の文体の最大の特徴は、「 」で括られた会話体が採用されておらず、発話も内心の声もすべて地の文にとけこんでいることだろう。こんな感じだ。
生きるか死ぬかのところで頑張っている子どもの絵は、描きたいって気持ちが出てるんでしょう、だから画面が生きてるんです。現実に死ぬ死なないの話をしるんじゃありません。それは、わかります、と隣人の女性は応じた。でも、実際に生きるか死ぬかの瀬戸際にいる病人に、喩えは通じません、それに、声が大きすぎます。わたしも賛成だったんだけど、言うとお父さん傷つくし、声もうまく出なくて、ほんと辛かったのよ、あとで看護婦さんにも注意されてね。
<中略>佐代もなんか言ってやって、と義母が言う。またいっぱしの画家みたいな口利いて、何十年もやってたんなら話はべつだけど、はじめてそう日も経ってないでしょ。P45
この短いくだりにいきいきと混交する発話者は、笛田さんの義父、義父の病室の隣人、笛田さんの義母、笛田さんの妻の四人。視点者は、ここには登場していない笛田さんだ。場面は回想の病室と妻の実家を行き来している。この融通無碍さは語り手のコントロールの賜物だろう。
本作では登場人物はほぼ全員が「さん」づけだ。視点人物がほかの人たちを「さん」づけするのはよくあるけれど、当人が視点者になっている章でも「さん」で呼ばれている。かられを「さん」づけしているのは語り手以外に考えられない。
近代に発祥する小説というものは、そのナラティヴから語り手を消失させるべくあらゆる技巧を凝らしてきた。隠蔽、擬装、釈明、3人称客観文体による後景化、1人称文体による前景化などなど(拙著『小説、この小さきもの』をご参照ください)。とはいえ、最近の日本小説には、その逆を行く語りも見られる。小山田浩子の『最近』のある2篇には、どこかから語りかけてくる見えない語り手がいたし、津村記久子の『噓コンシェルジュ』にも、登場人物を「さん」づけして語り伝えるような一篇があった。
明治における自然主義文学輸入以来、日本語の小説は――柄谷行人の言葉を借りれば――「語り手がいないかのようにふるまう」西洋風の3人称客観文体に向いて歩んできたけれど、私は上記のような語り手の存在感は日本語には自然なものだと思う。日本語小説の可能性を広げるものでもあるのではないだろうか。
今週映画公開が終わりそうなカズオ・イシグロの『遠い山なみの光』(小野寺健訳、ハヤカワepi文庫)にも触れておきたい。本作はイシグロのデビュー作にして、語りの巧緻さをもって最高傑作の一つと言えるだろう。戦後の日本を舞台にした本作には、悦子と佐知子というふたりの女性が出てくる。共通する部分もありながら対照的なふたりの物語は、ある箇所に差しかかって急に解釈の多義性を読者につきつける。
つまりその箇所に来たら、翻訳者もある決断(訳語の選択)をしなくてはらないのだ。今回の石川慶監督による映画は、小野寺健訳の邦訳版と正反対とも言える解釈を示したと思う。未見、未読のかたはぜひ比べていただきたい。
さて、メキシコの作家グアタルーペ・ネッテルの『一人娘』(宇野和美訳、現代書館)も、語りの鮮やかな技が堪能できる秀作だ。親友同士の女性ラウラとアリナは子どもを持たないことで意見が一致していたが、やがてアリナは結婚して子どもを持つことを選ぶ。ふたりの人生は分岐していく。
物語はラウラの一人称語りで進んでいくが、私は『遠い山なみの光』の語りのトリックを想起しながら読んだ。皆さんはどう読まれるだろうか? いまスペイン語圏随一と言える作家の一人である。