食べることと、しゃべること。作家、堀江敏幸さんの9年ぶりとなる長編「二月のつぎに七月が」(講談社)は人生の根幹に改めて気づかされる大部の小説だ。大衆食堂に飛び交う様々な声が人々の記憶を呼び覚まし、読み手の心にじんわりと染みてくる。
青果市場のそばにある食堂に、阿見さんは決まった時間に現れる。年中くたびれたレインコート姿で、いつもカレーとコーヒーを注文し、古びた文庫を読みながら、小さな手帖(てちょう)になにやら書きとめている。
読んでいるのは、先の戦争中に死んだ父親が肌身離さず持っていた「アミエルの日記」。スイスの哲学者による30年余に及ぶ内省的な人生記録は、戦中に岩波文庫の8巻本が出版されており、堀江さんも学生時代から親しんでいた。
物語は初老の阿見と食堂の配膳担当の丕出子(ひでこ)、料理人の笛田、3人の視点を円環しながら進む。大きな事件が起きるわけではない。阿見が文庫を読み進める時間に沿って、食堂の日常と3人の内面がつづられる。
「人が発する言葉や記憶がぐちゃぐちゃになっている空間にしたかった。訪れた人がしゃべる、それを聞こうと思わなくても聞こえちゃう。そんな場ですね」
食堂には市場関係者や近所の人が入れ代わり立ち代わりやってくる。とりわけ印象的なのは長距離トラック運転手の2人組。ある日のやりとりはこんな風だ。
年若で食欲旺盛な山野の肉野菜炒めは、笛田の気配りで大量のもやしが入れ込まれていた。いつもの串カツ定食を前にした年配の茅野がもやしのうんちくを語り始める。山野は相づちを打ちながら定食をたいらげ、「トンカツのカツだけ頼めますか、それと、ご飯を」。茅野は「それはトンカツ定食ってことだろ」と突っ込む。聞き耳を立てていた丕出子の脳裏に、もやしの記憶が呼び覚まされていく。
記憶を刺激するのは雑談だけではない。阿見の読みふける文庫本もそうだ。
「線や書き込みを何かのサインとして読むことで、いなくなってしまった人との通信が可能になる。そこにいない人と対話ができるって、本の根源的な役割だと思うんです」
たわいのない雑談ながら、底には先の戦争と戦後の混乱の記憶が沈殿している。笛田がこしらえた揚げバナナから当時のきなくさい国際情勢が浮かび上がり、丕出子の高校野球マニアの老父が講談よろしく語る沖縄チーム初の甲子園出場の話は美談ではすまされない悲話へとつながる。
戦争の記憶は堀江作品に重要な要素だ。最初の単行本「郊外へ」ではナチスドイツの強制収容所があったパリ郊外のドランシーを訪れ、フランス滞在中に書いた「河岸忘日抄」は、イラク戦争という進行形の戦争と地続きの物語だった。
「連載が始まった2017年の数年前から世の中の動きに抱いていた違和感や危機感のようなものが多少は入っているかもしれない。ただ、何を読んでも何を見ても戦争を思い出すのはしかたない。だって戦争の後に始まった世の中ですから」
もう一つ、人々の記憶を刺激するのは笛田さんが作る料理だ。定番メニューにひと工夫加えた定食が客を楽しませ、レシピ本さながらに調理過程が記された賄い飯は、常に丕出子の心を緩ませる。
「この本の核心は賄いなんですよ。その時にある言葉の破片とか、いろんな人がしゃべったことを賄って作るのが好きなんです」
賄われた言葉が、記憶とともに人々の気持ちをつなげていく。阿見さんが繰り返し食べているカレーのように、いつまでも味わっていたくなる小説だ。(野波健祐)=朝日新聞2025年12月10日掲載