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「濃霧の湯」に極楽を見た 青来有一

イラスト・竹田明日香

 だれもいない大浴場をひとりじめにして湯につかる心地よさは格別です。温泉宿に他の客が到着する前など、そんな贅沢(ぜいたく)を楽しむことができます。

 窓はまだ明るく、薄みどり色の湯からのぼる湯気は、渦を巻いて消えていき、なにを考えるでもなくぼんやりとして、湯にとけていく気分とでもいうのか、まさに極楽、至福のひとときでしょう。

 まもなく脱衣所の方で笑い声がしたらもうだめで、他の客の気配がすると湯から出ることを考え始めるのでした。子どもの頃、近所の共同浴場に通った経験もあるのですが、他人といっしょに裸でいることに、今もなにか決まりの悪さを感じないではいられません。

 笑われるでしょうが、身になにもまとわない、言葉本来の意味の裸のつきあい(ただ同じ湯につかるだけの他人の関係も含めてです)が、なにか恥ずかしいというか、微妙な抵抗感が年齢を重ねた今もどうしても消えません。

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 ヨーロッパでは水着をつけて利用する温泉プールもあれば、ハンガリーはなにもつけないで共同で入浴すると聞きました。今では日本の温泉事情も広く知られ、海外から日本に訪れた人々も、それほどためらいもなく服を脱いで温泉をいっしょに楽しんでいるようです。

 要するにひとつの文化、ひとつの習俗であり、それを受け入れるかどうかはひとそれぞれでしょう。ただ、最近の子どもたちには、修学旅行の入浴時、友だちの前で裸になるのを嫌がるといった話も聞き、裸のつきあいにも時代の変化があるかもしれません。

 全国の公衆浴場での混浴が禁止されたのは明治の後半でした。それでも昭和になっても、しばらくは湯治場などでは混浴は珍しくなかったという話もあります。昭和100年を迎えた現在、さすがに混浴が気にならないという人はまずいないはずです。

 文化も習俗もゆっくりと変わり、なにを恥ずかしいと感じるか、その意識も変わっていきます。次の100年で、同性でも共同入浴の習慣はなくなっていないとは断言できません。

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 広々とした大きな風呂は解放感があり、温泉なら、狭い貸し切り風呂にひとりつかるのではなく、大浴場にはいりたいのは当然でしょう。人間が別に嫌いではなく、裸同士でも気にならない距離の取り方はないでしょうか。水着をつけるといった野暮な方法ではなく、裸のまま他人といっしょに湯につかる、それなりに風情もある方法がないのかと考えていたら、ひとつだけ思いつきました。

 湯気がもうもうと立ちこめ、洗い場もひとつ空けて座ると隣の人の姿が消える、そんな「濃霧の湯」とでも呼んでよさそうな状態の浴場です。

 窓を閉めていたり、湯の温度や大気の温度差など条件が重なったりしないと、なかなかそこまで湯けむりが立ちこめることはないでしょう。

 九州の火山地帯にも自分が知る範囲では2カ所ほど、いつも真っ白な濃霧の湯状態の温泉があります。そのひとつを初めて訪ねたときには、浴場の広さも天井の高さもまったくわかりませんでした。

 白い湯けむりの奥から人々の声が聞こえ、湯の音や桶(おけ)の乾いた音が響いてちょっと神秘的でさえありました。

 打たせ湯があるらしく、ぴちぴちと雫(しずく)が跳ねる音の方に湯を切って近づくと、頭から湯を浴びるやせ衰えた木彫り仏像が一体置いてあります。

 なんとありがたいことか、仏さまとともに湯につかるのかと感心していたら、仏像がふいに動いてどきりとしました。あばら骨の浮き出たおじいさんが、座禅を組んで打たせ湯を頭から浴びておられたのです。

 一瞬にしても、湯けむりの中、見知らぬ他人の姿に重なって、仏さまの御姿がかいま見えたとしたのなら、裸のつきあいもまさにここに極まり、それこそ極楽の湯だったのかもしれません。=朝日新聞2025年5月7日掲載