1. HOME
  2. コラム
  3. 売れてる本
  4. 千野栄一「プラハの古本屋」 学問を楽しみ人や町と出会う

千野栄一「プラハの古本屋」 学問を楽しみ人や町と出会う

 1987年に刊行された本書は、東欧の体制転換後もなお長い間、プラハに少しでも関心のある人なら必ず手にとったエッセイ集である。とくにチェコを訪れる機会に恵まれた人たちは千野さんの古本屋、ビアホール遍歴に憧れ、この本の跡を辿(たど)って「聖地巡礼」を試みたものだった。ただし千野さんの遍歴のようにそれをたくさんの師友と出会うだいじな交差点にできた人は少なかった。

 現在は古書店の在庫情報は即座に検索できるし、古書・稀覯本(きこうぼん)の多くはPDF化されて居ながらにして閲覧することもできる。けれども古書を探して歩き回り、さまざまな人々との交流を通してやっとその本を手にいれる、肝心なのはその過程なのだと千野さんは教えてくれる。それぞれの本には個性的な来歴があり、人を介してこそ私たちは古書の個性と出会うことができる。古書店主ドクトル・Mはこう言う。「私は自分を文化の仲介者だと思っています」。出会いを描きながら本書はプラハの空気をとてもよく伝えている。

 エッセイは日常の点景から展開される言語学エッセイ(「沈黙の通訳」)、表題作「プラハの古本屋」、そしてソ連・東欧諸国を折々にめぐった旅行記「カルパチアの月」の3節にまとめられている。千野さんはつねづね「自分は言語学者にはなれなかった」と言っていた。「言語学者とは記述されたことのない言語を研究することが使命なのに、自分の役割は言語学の成果を伝えることにすぎなかった」と。しかしこのエッセイのように言語学の成果、そしてそれを学んだ舞台プラハの魅力を語れるのはまさに碩学(せきがく)の技である。そして碩学とは学問を楽しみ、学問や本、人や町との出会いをたいせつにできる人のことだろう。「学問とは常識のエッセンス」、これも本書中の印象的な一言である。

    ◇

 中公文庫・1155円。25年8月刊。8刷2万8500部。87年に大修館書店から刊行された名著を復刊。解説はチェコ文学者・翻訳者の阿部賢一さん。「本の話、旅情、そして帯に入れた『ビール』の文言も親しみやすかったのでは」と担当者。=朝日新聞2026年1月17日掲載