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押し入れに、父と蚊の記憶 青来有一

イラスト・竹田明日香

 空き家となった実家で、父と母の身のまわりのものや不用品をひとり淡々と整理する日々がなおも続いています。

 押し入れの中のホコリまみれの段ボール箱から、ヒモでとじた茶封筒の束がごっそり出てきました。紙類ならそのまま燃えるゴミとして廃棄すればいいのですが、封筒の中をたしかめたら、父の筆跡の書きつけがある大学ノートや古びて黄色くなったコピー用紙、ある団体の会員名簿もありました。

 父の仕事の関連資料のようです。会議録や打ちあわせの詳しい記録もあります。なんとなく気にもなり、一応、内容を確認して処分することにして、父のなつかしい筆跡を読みながら、母の記憶とともに16年近く前に亡くなった父の記憶もたどることになりました。

     *

 我を忘れて作業にのめりこんでいると、ミシリと音が聞こえ、天井をとっさに見つめていました。5年ほど前のことを思い出したのです。空き家となってまもなく、天井裏でなにか騒々しく走り回る音がしたことがありました。だれかがいると思い、最初はあわてふためいたのですが、どうも人間ではありません。おそらくイタチとかハクビシンなどの獣らしく、モップの柄で天井板を突ついたら、どたばたと逃げ回ります。

 専門の業者に駆除を頼もうと思いながら、家をたびたび訪ねて天井をモップの柄で突いていたら、音はまったくしなくなりました。神経質な生き物だったのでしょう、天井裏の気配も完全に消えてしまい、あれから5年ほど過ぎましたが、身がまえている自分がまだいます。

 天井裏の気配をしばらく探りましたが、家の前の道路をバイクが走っていく音のほかになにも聞こえてはきません。

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 手作業が中断したことをきっかけに押し入れの一番の奥にあった蚊取り線香の缶をとりだしました。中には未使用の線香が残っていてしけった感じもします。今、住んでいるところもそうですが、最近は蚊を見た記憶がなく、耳元でうるさくうなる蚊の羽音も長く聞いてはいません。

 半世紀以上前、子どもの頃に住んでいた古い長屋は、蚊が多い家でした。下水や側溝などの整備がまだ十分ではなく、街全体が今よりも蚊が発生しやすい環境だったのでしょう。実際、家の中でもよく蚊に刺されました。ぱちんと叩(たた)いた手のひらにこびりついている、人間の赤い血にまみれた蚊の死骸を夏になんども見た気がします。

 線香の煙がゆっくりとたちのぼる静かな深夜、蚊がぽとりと畳に落ちるかすかな音も聞いた気がするのですが、今思うとはたして蚊が落ちる音などが聞こえるのかどうか、線香の煙と蚊のかすかな羽音が結びついた夢うつつの、幻聴だったのかもしれません。

 蚊に関してのおもしろい思い出のひとつに蚊の幽霊騒動があります。エアコンも普及していなかった当時、地方の街は無防備であけっぴろげで、蒸し暑い夏の夜には戸は開けて、網戸だけで眠ることも少なくありませんでした。

 ある夜、トイレに起きた時、網戸の向こうに蚊がいるのを見つけました。当時の網戸はアルミサッシの枠ではなく、木の枠で網の目も今より粗かったかもしれません。網戸にしがみつく蚊をながめていたら、一匹の蚊が頭を押しつけるようにして網の目をすっとくぐり抜けたのです。

 翌朝、その話をしたら家族は笑い、父から「蚊の幽霊でも出たか」とからかわれました。あれも夢うつつの幻だったのでしょうか。蚊の幽霊なら小さすぎて恐ろしくもない、ノミもミジンコもうらめしやと化けて出ても、だれも驚きはせん、と祖父母もいっしょにみんなで笑っていました。

 昭和の時代の、たわいもない思い出ですが、だれもいなくなった今、あの瞬間、家族が静かに輝いていたようにも感じます。=朝日新聞2025年3月3日掲載