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皆川博子さん「ジンタルス」 どん底から、どう立つ 時代と国を超えて描く2人の青年の数奇な人生

皆川博子さん=小山幸佑撮影

 古い時代の遠い異国の物語を日本の作家が書くことに意味があるのか――。答えを知りたければ、皆川博子さんの新刊小説「ジンタルス」(河出書房新社)を読めばいい。19世紀帝政ロシアと13世紀バルト海沿岸を舞台に描かれる2人の青年の数奇な人生が、戦争まみれの今を生きる読み手の心を強く揺さぶる。

 始まりはロシアのウクライナ侵攻だった。皆川さんは関連書を読むうち、ウクライナの国民詩人シェフチェンコの生涯を知った。農奴の身分から画家、詩人となり、革命運動への参加によって10年の流刑生活を送った人物だ。

 「貴族の自慢心からでしょうか、才能のある農奴にパトロンのようにふるまうことがあったんです。でも決して自由にするわけではないから、とても窮屈な芸術家。そんな立場が興味深くて、彼に着想を得た主人公ミーシャが生まれた」

 もともと書こうとしていたのは13世紀にリヴォニア(現在のバルト3国の一部)を征服した北方十字軍を背景にした話だった。3年前に出した「風配図」に続く、バルト海を舞台にしたシリーズとして。非キリスト教徒を弾圧する騎士団により家族を失ったジンタルスが復讐(ふくしゅう)を決意し、その懐に入っていく物語だ。

 「異教徒にカトリックへの改宗を求める十字軍なのに、騎士団はリヴォニアを殲滅(せんめつ)して自分の領土にする。ひどい話で、宗教のために戦ってるのに領土欲の方が強くなっちゃう。どっちの話も書きたくなって、農奴のミーシャが作中作としてジンタルスを書く構成にしたんです」

 二つの物語は交錯しながら進む。権力を持つ者により、ミーシャとジンタルスはほんろうされる。宗教を御旗(みはた)にした侵略や虐殺、思想や表現の弾圧、為政者の身勝手なふるまい……。

 「私が女学生だった日本の戦争中もそうでした。反体制的なことは爪の先ほども言えなかった。むしろ締め付けられるのが当たり前と思えるほどに」

 ミーシャは農奴ゆえの風雪にさらされながらも、周りの人々に目をかけられ、画才、文才を花開かせていく。とりわけ大きな運命の分かれ目となる主人とのチェス対決は、緊迫感に満ちた筆致がみずみずしい。

 ジンタルスとはリヴォニア語で琥珀(こはく)のこと。「ただのヤニの塊が、すごく長い歳月を経て琥珀になる。海に流れて、地に埋もれて、それでも美しい輝きを放つ。そこにひかれました」

 どこか暗さをたたえて終わることの多い皆川作品だが、本作は琥珀の輝きのような希望がほのみえるラストシーンが待っている。

 「確かに、暗かったり、シニカルだったりするラストを書いてきた。でも変わったの」

 一昨年、全く飲食できなくなった。このまま寝ていたらいつごろ終わるのか、と医者にたずねた結果は事前にネットで調べた結果と一致した。静かな気持ちで終わりを迎えようとしていたのに、「予定日」を過ぎてもなかなか終わらない。

 「ならばもう少し生きようと、点滴を打ったら元気になっちゃって。そんな経験から、どん底からどう立ち直るかを考えるのも書き手の務めではないかと思うようになったんです」

 作中、ミーシャに手を差し伸べる人物が書き残した言葉にこうある。〈書くという行為。泛(うか)んだ言葉は書き留めないと消えてしまう。書き留めることによって、思考は定着する〉

 御年96歳。なお執筆意欲は衰えない。すでに次回作「贋作(がんさく)師マルコ」を書き進めている。画家カラバッジョをモデルにした兄弟の物語。「その次はバルト3部作の最後を書ければいいと思っていますが、時間があるかしら」(野波健祐)=朝日新聞2026年7月1日掲載