〈戦場体験〉
①戦場体験を語らずに死んでいいのか… 焼却された記録文書 保阪正康『戦場体験者』より
記事:筑摩書房
過酷な戦場から帰還した兵士たちは、戦争が終わって平穏な日常を取り戻した後も、軍の命令に従って行ったことへの罪悪感や葛藤を抱えていました。ノンフィクション作家・保阪正康さんは、約4000人の戦争体験者に聞き取りを重ね、高齢の元兵士たちが「自らの体験を語り継ぎたい」と願う姿を記録し続けました。
中国での強制連行に関わった、という元兵士の証言や、戦後、旧憲兵らが自らの行為を記した文書を古書店から買い集め、焼却していたという証言も紹介(!)。戦争の記憶や記録を消し去ってしまおうとする動きに抗い、一人ひとりの苦悩・証言を次世代へつなぐことがどれほど大切か、問いかけます。
私たちの国には常に記憶と記録を解体せしめようとの動きがあることがわかる。それは「昭和二十年八月十四日」に軍事・政治指導者たちが「一切の史料を焼却せよ」と命じたその命令が今なお生きていることになるともいえるのだ。
このような動きに抗して戦争の記憶と記録を歴史の中に刻みこんでいくのは、戦争の時代に生きた人たち個々人の苦悩とその伝承への熱意に次代の者がいかに思いを共にして語っていくかという闘いでもある。(戦場体験を語らずに死んでいいのか… 焼却された記録文書 保阪正康『戦場体験者』より)
②『記録 ミッドウェー海戦』澤地久枝さん特別インタビュー
記事:筑摩書房
いっぽう澤地久枝さんは、ご自身の戦争体験や、終戦の時、旧満州(現・中国東北部)からの引き揚げの際に抱いた葛藤を原点として、「戦争とは何だったのか」を一貫して問い続けてきました。『記録 ミッドウェー海戦』では、国からの協力を何ら得られないなか、遺族への丹念な取材を重ね、日米の戦死者3418人もの氏名や経歴を突き止めました。
調査を続けるうちに澤地さんがわかってきたこと、それは、戦争では末端の兵士が最も多く命を失い、その死は遺族の人生にも深い影を落とすという現実だといいます。日米、敵味方を超え一人ひとりの死者を「人間」として記録すること、そして彼らの存在を未来の世代も身近に感じ、戦争の記憶を受け継いでいくことの大切さを語っています。
やり始めてみたら厚生省は全く協力してくれないということで全く途方に暮れました。最初は厚生省に行けば、ミッドウェー海戦ではこれだけの人間が死んでいるというぐらいのことは把握していると思っていたけれども、ここには何もないと言われて。「地方自治体にあるでしょ」と非常に突き放された形で言われた時に、「こんなに戦争っていうもの、戦死というものがみんなの関心にないのか」と思ったんです。
でも一家の中で戦死者を出した人たちはそうじゃないだろうとまた思ったんですね。
それで、じゃあこれは当たってみるしかないと思って、いろいろなところへ当たっていったら思ったよりも多い人たちが亡くなっていて、しかもその遺族、残された家族はみんなよく忘れずに覚えていて、話を聞けばみんな話しながら途中で涙をこぼすというふうな、そういう死者と生者との関係があるということもだんだんわかってきた。
国というようなもの、厚生省が一切協力をしないならばこれは私個人でもやらなきゃならないだろう。それは見殺しにした友達に対する答えでもあるんじゃないかと。
それで私は、これは最後までやろうと。(『記録 ミッドウェー海戦』澤地久枝さん特別インタビューより)
〈庶民たちの戦争〉
③昭和の敗戦の歴史から私たちが学ぶべきこと——半藤一利《昭和史》より
記事:平凡社
ロングセラー《昭和史》シリーズの著者・半藤一利さんは、『新版 昭和史 戦前篇 1926-1945』のむすびの章「三百十万の死者が語りかけてくれるものは?」のなかでこう語っています。「昭和の歴史というのはなんと多くの教訓を私たちに与えてくれるかがわかる」――。半藤さんは、学ぶべき教訓として、国民的熱狂に流されないこと、希望的観測ではなく現実を理性的に見ることが、どんなに大切か訴えます。
敗戦前の日本は、マスコミなどに煽られた熱狂や、「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」「ドイツがヨーロッパで勝てばアメリカが戦争を続ける意志を失い、栄光ある講和に導ける」などという、根拠なき期待、小集団エリート主義、それに国際社会への理解不足、場当たり的な政策が重なって、指導者たちは「大丈夫、勝てる」という自己過信に陥っていました。
その結果、甚大な犠牲を国内外に出したのは周知の事実。ところが、大失敗を冒したのにもかかわらず、責任の所在が曖昧にされました。半藤さんは、「こうした傾向は現代にも通じる」と警鐘を鳴らします。歴史は、ただ振り返るだけでは意味がありません。過ちを繰り返さないために、自ら意識的に学び取っていく必要がある。半藤さんはそう呼びかけます。
何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした。
(中略)いろいろと利口そうなことを言いましたが、昭和史全体を見てきて結論としてひとことで言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。こんなことを言っても喧嘩(けんか)過ぎての棒ちぎれ、仕方ない話なのですが、あらゆることを見れば見るほど、なんとどこにも根拠がないのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です。今日の日本人にも同じことが多く見られて、別に昭和史、戦前史というだけでなく、現代の教訓でもあるようですが。(昭和の敗戦の歴史から私たちが学ぶべきこと——半藤一利《昭和史》より)
④第二次世界大戦下の女性たちの労働を描いた《大東亜戦皇国婦女皆働之図》が伝えること——『女性画家たちと戦争』著者インタビュー(前・後篇)
記事:平凡社
長らくタブー視されてきた「戦争画」と、美術史で周縁化されてきた「女性画家」。美術史家の吉良智子さんは、ジェンダーの視点から研究を重ねてきました。大学時代、女性たちの労働を描いた《大東亜戦皇国婦女皆働之図》と、それを制作した「女流美術家奉公隊」の存在を知った吉良さん。ところが女性画家に関する史料や記録は乏しく、戦時・戦後の美術展や新聞記事を丹念に調査していくしか選択肢がありませんでした。
文献調査には限界があると感じた吉良さんは、「奉公隊」に参加した女性画家たちを探し出して、直接聞き取りを実施します。埋もれていた「女性画家と戦争との関わり」を掘り起こし、美術史をジェンダーの視点から捉え直していきます。
事実、子どもの面倒を見たり、負傷兵のケアをしたり、そういう見えない場面では女性たちの労働力が必須でした。この《皆働之図》は女性画家たちの「本音を語る絵」なんです。東京美術学校(現東京藝術大学)を受験できるは男性のみという美術教育のジェンダー格差や画壇での不当なジェンダー差別がありました。そういう背景なども踏まえると、この《皆働之図》は女性画家たちが描いた大きなサイズの絵という単純な見方をすることはできなくなってくると思います。(第二次世界大戦下の女性たちの労働を描いた《大東亜戦皇国婦女皆働之図》が伝えること——『女性画家たちと戦争』著者インタビュー後篇より)
〈沖縄〉
⑤鉄火地獄 ──沖縄タイムス社編『沖縄戦記 鉄の暴風』より
記事:筑摩書房
唯一の地上戦となった沖縄。地元紙・沖縄タイムス社による『沖縄戦記 鉄の暴風』は、1945年の沖縄戦で住民や兵士が置かれた極限状況を記録しています。激しい艦砲射撃や空爆のなか、人々は壕を転々としていきましたが、食糧も、医薬品も、何もかもが足りていませんでした。軍の補給網は崩壊し、住民の食糧を求める兵士も増えていきました。
さらに住民は軍の命令によって避難や弾薬運搬を強いられ、日本軍による処刑までも起こったのです。戦場では、軍・民の境界が崩れ、住民は砲撃、飢餓、軍の統制のすべてにさらされました。この本は、沖縄戦が単なる軍同士の戦闘ではなく、住民の日常、そして命を徹底的に巻き込んだ戦争であったことを克明に伝えます。忘れるわけにはいかない沖縄の過去、そして多大な負担を強いる現在の問題についての記事は、「じんぶん堂」で数多く配信されています。
米軍が未だ上陸しなかった三月中旬頃、この村では、自国の軍隊の手によって、三人の犠牲者が血祭りにあげられた。三人とも部隊長の怒りをかい、村民への見せしめと称するきつい命令で、殺戮が行われたのである。村民の与那城伊清は、部隊とのある公けの席上で、日本軍の高射砲の命中率が悪いのは、一体どうした訳かと反問したためであった。前城常昂は、部隊に納めた、薪代を請求したため、村会議員、大城重政は部隊の兵隊が無断で、村民の家畜を運び去るのを、強談判したため、何れも射殺された。部隊長がいう極刑の罪名は「スパイの疑いあり」であった。(鉄火地獄〈前半〉 ──沖縄タイムス社編『沖縄戦記 鉄の暴風』より)
〈核なき世界〉
⑥「核なき世界」の理想を切り下げてはならない 三牧聖子さん・評『核と被爆者の国際政治学』
記事:明石書店
国際政治学者の三牧聖子さんは、佐藤史郎さん(東京農業大教授)による『核と被爆者の国際政治学』を通じ、核兵器の非人道性と安全保障の間にある難しい問題について目を向けていきます。被爆者が核の惨禍を語ることは、核廃絶を促すいっぽうで、「同じ被害を避けるために核抑止力が必要だ」という論理にも利用されてしまいます。
この矛盾から目をそらさずに、「語る」被爆者だけでなく、トラウマなどから「語らない/語れない」人々の存在そのものにも「核の非人道性」が表れているのだ、ということ。そして、核使用の危機が高まる時代だからこそ、さまざまな被爆者の経験を記憶し、国際政治に生かしていくこと。その必要性を訴えています。現実の厳しさを理由に「核なき世界」という理想を切り下げてはならないのです。
本書の白眉は、被爆者の「語り」の複数性・多様性を徹底的に追求している点だ。佐藤氏は、核の非人道性を「語る」被爆者のみならず、「語らない/語れない」被爆者が存在することに注意を促す。
流暢な英語で核兵器禁止条約の意義を語り、同条約への日本の参加を力強く呼びかけてきたサーロー節子氏は、国際社会で「語る」被爆者の典型的な例だ。彼女の功績は疑い得ない。佐藤氏はそう強調したうえで、彼女のような国際的な存在ばかりに注目が集まることで、より著名でない日本の被爆者が語りにくさを感じたり、罪悪感やトラウマでいまも被爆経験を「語らない/語れない」被爆者の存在が、ますます不可視化される危険があるとも指摘する。私たちは、「語る」著名な被爆者の陰に、多様な被爆者がいることへと想像力を常にめぐらせる必要がある。(「核なき世界」の理想を切り下げてはならない 三牧聖子さん・評『核と被爆者の国際政治学』より)
⑦9条は「ならず者国家」を「平和国家」に作り替える規定だった 篠田英朗『ほんとうの憲法』より
記事:筑摩書房
憲法9条を「日本だけが持つ特別な平和主義」とみなす。そんな戦後憲法学を篠田英朗さんは批判的に見つめています。1945年の国連憲章では既に武力行使を原則禁止しており、1947年施行の日本国憲法は、その国際規範を追認する性格を持つからです。9条は一切の軍事力を否定する規定ではなく、自衛のための軍事力を認めつつ侵略戦争を放棄する国際標準に沿ったもの。そうした上で篠田さんは、戦前、侵略を重ねた日本を「ならず者国家」から「平和国家」へ転換するための規定として9条の意義を捉えるべきである、と論じます。
日本は、満州事変によって国際連盟が象徴した第一次世界大戦後の国際法規範にあからさまな挑戦をし、東アジアにおいて空前の侵略行為を繰り返した挙句に、世界のほとんどの国が同盟関係を結んだ「連合諸国(United Nations)」に敗れ去った、いわば「ならず者国家」であった。その国家が、終戦後間もない占領中の状態で、憲法9条で一気に世界の理念的指導者になったなどというロマン主義的物語は、ナショナリズムに基づく夢想に過ぎない。「ならず者国家」を「平和国家」に作り替えるための規定が9条であり、平和国家に生まれ変わったことは誇るべきであるとしても、9条を持っていることが日本の誇らしい行為の結果だと誤認すべきではない。(9条は「ならず者国家」を「平和国家」に作り替える規定だった 篠田英朗『ほんとうの憲法』より)
⑧特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー(前後編)
記事:平凡社
最後に、「非戦」という文字を見て思い起こすのは、坂本龍一さん。東日本大震災後しばらく音楽を聴けなくなった自身の経験から、「音楽には悲しみを慰め、亡くなった人や失われた故郷を悼む力がある」と語ります。バッハの「マタイ受難曲」に救われた体験を振り返り、喪失こそが古今東西の音楽を生む大きな原動力だと考えるようになったそうです。
いっぽう、福島原発事故後の社会やメディアのあり方、日本のナショナリズムにも強い危機感を示し、恐怖や違和感を押し殺さず、必要なら「やめる」「逃げる」と考えてよいと語ります。さまざまな機会を通じて、自らの感覚で考え続ける姿勢を貫いていた坂本さん。福島第一原発事故を「いまだ傷口から血が流れ続けている」状態になぞらえ、事故後も原発再稼働を進める日本社会に強い疑問を示します。
この日本という国は、まさに太平洋戦争の時のように、一度始めた政策を「やめる」と決断できず、失敗を認めないまま進み続ける傾向があります。けれども、市民による抗議や脱原発フェス、地方移住、再生可能エネルギーへの参加など、暮らしそのものを変える動きは確かに芽吹いていて、そこに坂本さんは希望を見いだしてもいます。政策を変える力は、政治家だけでなく市民にもあるはず。「もうやめていい」と社会全体で背中を押すことこそ民主主義。そう語り残しています。
坂本:すでに「やる」と決まったことについて、この国では「やめる」という決定をだれもできないんですよ。撤退ができない。だから、全滅するまでまえにすすんでいっちゃうんですね。
これはちょっと悲劇ですよね。このまますすんでいったら水に落っこっちゃうとわかっていても突きすすんでいくネズミの群れがあるそうですけど、そういうもののような……。ちゃんと自分自身もふくめて国民全体のことを考えている指導者なら「ここはもうひきかえそう」とか「違う道をいこう」といわなきゃいけないはずです。だけど、そういう指導者がいない。不幸です。
だから戦争中も、意地でも「撤退」といわないで「転進」といったりするんですよね。でもね、べつに「転進」でもいいですよ。言葉を代えてそれで犠牲がすくなくなるならそっちのほうがいいでしょう。
(編集註:太平洋戦争において、日本軍は戦況が悪くなり逃げることを「転進」といいかえた)(坂本龍一さん3万字インタビュー後編より)