超・アジな「オザケン」の歌詞 鈴木結生
4月の最終週、私は家族で中国・広州を訪れていた。古くから「食は広州に在り」と言われる美食の街で、昨年訪れた際、その料理の旨(うま)さに感動し、何とか家族にそれを伝えたかったのだが、料理の名前も、使われている食材も、まるで見当がつかない、せめてその旨さを言葉で表現できたら、と一応小説家の端くれとしては思いもしたのだけれど、結局こればかりは実際に食べてもらうほかなかった。中でも今回、特に感動したのが名物の炒麺(チャーメン)。食品の冷凍技術が発達し、日本中、いや世界中のあらゆる名産が都市のデパートで手に入る現代でも、こればっかりは現地で食べるしかないわけで、そのためだけでもいいから、日中関係の恢復(かいふく)を願う。帰国した日、私がその足で向かったのは福岡サンパレスホール。お目当ては、小沢健二のライブであった。
小沢健二といえば、90年代に爆発的な人気を博した「オザケン」のイメージが強いだろうが、私自身は、小沢氏が2017年に19年ぶりのシングル〈流動体について〉を発表した際、朝日新聞に出された全面広告でその存在を知った、いわば新しいファンである。当時、殆(ほとん)ど同時代の文学や音楽に関心を持てなかった私だが、その音楽の楽しさ・言葉の面白さにはたちまち魅了され、以来その一挙手一投足を受け止めることが、自分の思索の大きな基盤にもなってきた。さて、今回もまた新しいキーワードが提示された。すなわち「Aidade」=「間で」。
ここからは【ネタバレ注意】。会場に入場すると、すぐに手渡されたのはオレンジ色の縦長の袋、その中には更に七つの小袋が入っており、それぞれライブを味わうために必要な道具が収められている。オレンジの袋に書かれた「開演前の準備」の手順を踏みながら、そこにびっしり書かれた文字を追うと、なるほどこの「七つ」の袋というのも非常に重要であることが分かってくる。間も無く始まるライブの中でも語られることだが、氏はニュートンの『光学』理論に昔から関心を寄せており、特にニュートンが、ドレミファソラシの音階に合わせて、光もまた七色に分かれる、と考えた詩性に着目する。まさしく、ニュートンは魔術と科学の「間で」生きた人間であった。
ライブではニュートンよろしく、様々な二項対立の「間で」、小沢氏が揺れ動いていた時代を、観客である我々も追体験することになる。そのための演出や装置の一つ一つは驚くほど丁寧に作り込まれており、それでいて全体としては、ただただ幸せ、としか言いようがないのだ!
しかし、私が今回最もハッとしたのは、新曲「台所は毎日の巡礼」に対してである。本楽曲は、昨今の小沢氏がとりわけ重要視している、言葉や音楽で抽象し得ないものの素晴らしさ・生活の細部に溢(あふ)れた具体性の喜び、ということを「料理」という題材を通して語っているのだけれど、その歌詞の中にこんな一節が出てくる。
「炒麺? それは何か? と思う 『あ! あの店で食べたのだ!』とか思い出すと またアジなものですよ」
何と! その瞬間、私の口と耳と脳と心が溶け合った。正直、この曲を初めて聴いた時、私は炒麺を知らず、その固有名詞を自然とスルーしていたのだけれど、今なら分かる。自分の中にちゃんと「あ! あの店で食べたのだ!」もある。そして、あの美味しさを言葉で伝えられなかった芸術のもどかしさも、家族でそれを食べたときの、複製できない具体性の喜びも、すべての間にあって、私はただ呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしたのだった。=朝日新聞2026年6月14日掲載