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「別れを告げない」書評 引き裂かれた島の記憶から光が

評者: 安田浩一 / 朝⽇新聞掲載:2024年06月01日
別れを告げない (エクス・リブリス) 著者:ハン・ガン 出版社:白水社 ジャンル:外国文学研究

ISBN: 9784560090916
発売⽇: 2024/03/29
サイズ: 19.4×2.9cm/304p

「別れを告げない」 [著]ハン・ガン

 雪が降り続く。真っ白に染まった道に、哀切極まりない言葉が刻印されていく。雪がすべてを吸収し、空気までもが凍り付いてしまったような無音の世界。ピンと張りつめた緊張感ある文体が最後まで持続する。
 物語は冒頭から不穏な空気に満ちている。主人公の小説家キョンハは、悪夢に追い込まれ、疲れきっていた。幽鬼のように生を綱渡りする日々。そんなある日、友人の映像作家インソンが指を切断した。病院に駆け付けたキョンハに、彼女は飼っている鳥の命を救うため、済州島の家まで行ってほしいと懇願する。
 大雪に見舞われたその日、キョンハはソウルを発つ。済州島で見たのは、激しい吹雪の中に浮かび上がる深くて暗い歴史の闇だった。
 リゾート地として知られる済州島は、血塗られた歴史を抱えている。「朝鮮半島の現代史上最大のトラウマ」とされる済州島四・三事件の舞台でもあるのだ。
 1948年、朝鮮半島の南北分断に反対する民衆が済州島で武装蜂起した。これに対し、軍や警察、反共団体が「討伐」を決行。2万5千人から3万人もが虐殺された。その後、長きにわたって事件はタブー視され、地元住民も「アカ」のレッテルを貼られることを怖(おそ)れ、沈黙を通してきた。真相究明が進んだのは、87年の民主化以降だ。
 この〝虐殺の島〟で、夢とも現実ともつかない風景が立ち上がる。入院しているはずのインソン、そして「四・三事件」を生き延びたインソンの母親が、記憶の糸を紡いでいく。小さな水滴が雪の結晶を生み出すように、事件の輪郭が浮かび上がる。「生きた抜け殻みたいな人」だと思われていた母親の痛みは、心と体を国家権力に引き裂かれた島の慟哭(どうこく)でもあった。
 それでも暗闇の中にわずかな光が差し込む。
 別れを告げない――タイトルにも込められた静かな決意は、痛みに満ちた残酷な記憶を、再生の物語へと導くのだ。
    ◇
Han Kang 1970年、韓国・光州生まれ。作家。著書に『菜食主義者』(李箱文学賞、国際ブッカー賞)、『少年が来る』など。