地元で行きつけの食べ物屋となると限られる。行きつけというのはどれぐらい通っている店を言うのだろうか。
その一軒は自宅から徒歩で三分のイタリアン「R」。オープン以来なので、何十年かのお付き合いになる。シェフが厨房(ちゅうぼう)に立ち、チャーミングな奥さんがウェートレスを務める。
季節ごとにメニューを変えて、海老(えび)カニコースとかブイヤベースコースなど、地中海の魚介類をアレンジして供される。そのつど出掛けていき、いつもハーフのスプマンテを空けて満足して帰ってくるのだが、このご夫婦、ときどき新しい料理を仕入れるために店を閉めてヨーロッパに出掛ける。その報告がハガキで送られてくるのも楽しみ。お洒落(しゃれ)な絵もついていて、才能豊かなシェフである。何と言っても、食べ歩きの楽しみを知っているシェフの味は、ひと味違う気がする。
小料理屋「S」も定期的にお邪魔する店で、メニューには季節の地元の食材が並んでいる。今はノドグロの一夜干しや、岩牡蠣(がき)が美味(おい)しい。
けれどこの店で最も美味、他では食べられない一品は、ワタリガニの紹興酒漬けだ。数日前に漬け込まれた生のワタリガニの肉は、半透明に熟成して、かぶりつき啜(すす)るようにその身を食べるとき、紹興酒とカニの肉が口の中で溶けて広がり、その酩酊(めいてい)感はたまらなくアジア的。韓国のチェジュ島から入荷したときだけの特別な料理だが、最近それが滞っているらしく、なかなか有り付けない。私はカニ好き人間で、大概のカニは食べてきたけれど、毛ガニ、ズワイガニ、ストーンクラブ、ダンジネスクラブと較(くら)べても、ワタリガニが一番だと思う。
ワタリガニの料理と言えば、中東の海からやってきた冷凍モノを、白ワインとニンニクで炒めてトマトソースで煮込み、パスタにかけて食べるのも美味しいが、やはりアジアのお酒が染みこんだものには及ばない。なぜならカニは腐肉が好物で、なかなかの悪食である。アジアと悪食。カニの美味には、怪しく深い理由がありそうだ。
さらにもう一つ、串カツ「K」にもよく通っている。串の先に季節の食材を付けてカラリと揚げる。ポン酢やソース、塩などをつけて一口で頂くのだが、揚げた衣の中から舌の上に絶妙なハーモニーで現れるのが、一通りではない食材の組み合わせ。イチジクと生ハムであったり、栗の実をアンズで包んであったり。口の中に入れるまではそれが何者か、どんな組み合わせかが判(わか)らないだけに、舌で探り当てる楽しみがある。
ふと気がついた。今あげた三つの店はいずれもご夫婦だけで続けてこられた。それが長続きの理由であり、お客としても安心できるところである。=朝日新聞2018年7月28日掲載
編集部一押し!
-
インタビュー 荻堂顕さん「いちばんうつくしい王冠」 傷つけた側、どう罪に向き合えば 朝日新聞文化部
-
-
とりあえず、茶を。 孤独な宇宙 千早茜 千早茜
-
-
小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【連載30回記念】市川沙央さん凱旋! 芥川賞後の長すぎた2年。「自費出版するしかないと思い詰めたことも」 小説家になりたい人が、なった人に〈その後〉を聞いてみた。#30 清繭子
-
えほん新定番 内田有美さんの絵本「おせち」 アーサー・ビナードさんの英訳版も刊行 新年を寿ぐ料理に込められた祈りを感じて 澤田聡子
-
インタビュー とあるアラ子さん「ブスなんて言わないで」完結記念インタビュー ルッキズムと向き合い深まった思考 横井周子
-
一穂ミチの日々漫画 「山人が語る不思議な話 山怪朱」 (第6回) 山の怪は山の恵みと同様にバリエーション豊かだ 一穂ミチ
-
トピック 【プレゼント】第68回群像新人文学賞受賞! 綾木朱美さんのデビュー作「アザミ」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】大迫力のアクション×国際謀略エンターテインメント! 砂川文次さん「ブレイクダウン」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】柴崎友香さん話題作「帰れない探偵」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
インタビュー 今村翔吾さん×山崎怜奈さんのラジオ番組「言って聞かせて」 「DX格差」の松田雄馬さんと、AIと小説の未来を深掘り PR by 三省堂
-
イベント 戦後80年『スガモプリズン――占領下の「異空間」』 刊行記念トークイベント「誰が、どうやって、戦争の責任をとったのか?――スガモの跡地で考える」8/25開催 PR by 岩波書店
-
インタビュー 「無気力探偵」楠谷佑さん×若林踏さんミステリ小説対談 こだわりは「犯人を絞り込むロジック」 PR by マイナビ出版