私は、京都にずっと憧れを持っていた。
人生で初めて京都を訪れたのは、高校2年生の時の修学旅行だった。清水寺やら金閣寺やら「王道」の観光スポットを抑えつつ、三十三間堂や六波羅蜜寺の周辺も巡った記憶がある。日本史の教科書で見た、仏像の数々が自分の目の前に実存することに感動を覚えた。
そういえば、初めての一人旅も京都だった。浪人生活を終えて、大学に入学するまでのつかの間の休みに、吸い寄せられるように京都へ行った。その時は、天龍寺や祇王寺、渡月橋など、嵐山を中心に回った。一人旅と京都というのは殊のほか相性が良い。うまく説明できないのだが、一人でいることの寂しさを感じさせない街の包容力があるし、むしろ、旅の道中、一人であれこれ哲学することを歓迎する空気が流れている気がする。今思うと、あれは一人旅にハマったきっかけの旅だったかもしれない。
その後も、何度か京都を旅してきたのだが、新聞記者をしていた頃、最後に赴任したのが京都だった。そう、私は運命的に京都に住むことになったのである。赴任して最初の1年は京都府警担当で、その翌年は高校野球の担当で、忙殺される毎日だったので、京都の「観光地」を巡る時間はほとんどなかった。祇園祭、葵祭、時代祭という三大祭をゆっくりと見られるはずもなく、たまの休日、市内の寺や神社で御朱印をコツコツ集めて、「京都欲」を満たす程度。それでも、京都に住んでいるというだけで、私はご機嫌だった。
これまで観光客として寺社仏閣ばかりを見てきたが、いち生活者になると、京都にはスーパーもカフェも駐車場も本屋も銭湯も劇場もパン屋もラブホテルもあることが見えてきた(鴨川沿いで「と、いうわけで。」という名前のラブホテルを見つけた時はそのセンスに感心した)。京都の日常に溶け込み、京都が「わたしの街」になっていく感覚。お洒落な本屋さんである「恵文社一乗寺店」やイスラエルの料理が食べられるカフェ「ファラフェルガーデン」、スコーンが食べたくなったら「ナカムラジェネラルストア」、深夜に飲むなら…など、自分なりの行きつけの店もできて、ますます京都が好きになる。
京都の引力は凄まじい。なぜ、ここまで私は京都に魅せられるのだろうと時々考える。そんな時、京都を舞台にした小説を多く書いている森見登美彦のエッセイ集『太陽と乙女』(新潮社)で、こんな告白を見つけた。
ごめんなさい。好きといえば好きなのだが、普通の好きとは言い難い。私はリアルな京都のことは知らず、ましてや「京都通」にはほど遠い人種である。私は自分の妄想と言葉で作った京都に惚れているのであり、いわば狸の化けた偽京都こそが私の京都なのだ。(132ページ)
何の変哲もない平凡な街角であっても、私が想像力を刺激されてワクワクするのであれば、それはその街の魅力と言える。宝物を拾い集めるようにして、それらの妄想を毎日集めていると、やがてそれらがつながり始め、もう一つの幻想の街が現れてくる。私が「街を好きになる」というのはそういうことだ。(396-397ページ)
なるほど、と思う。
京都は想像力を刺激する場所なのだ。この細い路地の先には、この場所の1000年前は、と物語が始まる予感が詰まっている街なのだ。だからきっと私はこの街にきっとずっと魅了されている。京への妄想をかき集めて、また季節が巡ったら、私は京都を旅しようと思う。