東京の渋谷の外れに、亡き夫の本多征昭と一緒に6坪の小さなイタリアンレストラン「カプリチョーザ」をオープンしたのは1978年、今から40年前のことでした。当時は外食も根付いておらず、イタリア料理は高級だと思われていた時代。彼はイタリアで国立の料理学校を主席で卒業後、ヨーロッパで数々の賞を受賞し、その功績がイタリア政府に認められ、1970年には日本初の大阪万国博覧会でイタリア館のシェフに任命されました。日本の食文化は万博でがらりと変わったと思います。
カプリチョーザを始めたのは夫が34歳のとき。彼はお店がほんとうに好きで、どんぶりのような大皿からあふれんばかりの大盛りのスパゲティを出して、お客様がびっくりして喜ぶ姿を見て、自分も喜んでいました。宣伝をするお金もありませんでしたが、「大皿に山盛り」という評判が口コミで伝わって行列ができるようになり、当時はめずらしかったフランチャイズのお話もいただいて、チェーン展開がスタート。さあこれから、という矢先に病気が発覚して余命いくばくもない状態になり、44歳で亡くなりました。無念だったと思います。それから30年が経ち、創業40周年をきっかけに、その功績を本というかたちにまとめることができました。
寡黙で口数の少ない人でしたが、ちょっとしたしぐさや行動がとてもあたたかくて、尊敬していました。創業のレシピを受け継いでいるカプリチョーザの料理は、そんな彼の思いがそのまま料理に表れていると感じます。そうでなければ、お客様が喜ぶからと、どんどん料理の量を増やしたりしないですよね(笑)。元気よく「いらっしゃーい!」なんて挨拶したりはしないけれど、遊び心があって、たまにニコリと笑ってウインクしたりもする。そんなしぐさも愛されていました。短かったけれど、凝縮した人生だったのではないでしょうか。
彼が敷いてくれたレールを踏み外さないようにしながら、まわりにも助けてもらって、ここまで来ました。節目の年を迎えて、来年はまたゼロからのスタートだという緊張感を持っています。お客様のニーズはもちろん考えますが、こちらから喜んでいただける提案をしていかないと、この業界では勝てない。食事を提供するお店なので、基本はおいしい料理をお出しすることが心臓部です。料理は食材のカットの仕方ひとつで、味や食感がまったく変わる。本多が作った売れ筋のメニューのレシピをしっかりと受け継ぎ、カプリチョーザの芯を守りながら、新しい枝葉を広げていけたらと考えています。
20歳で8歳歳上だった彼と結婚して、16年しか一緒にいられませんでしたが、今も変わらず守られていると感じます。亡くなってから、彼の偉大さや良さが、どんどん身にしみてくるというか。苦労したのではと言われることもありますが、私はたんたんと生きるより、波瀾万丈型で、楽天的にものごとをとらえるほうなので、大変だったことより、まわりに支えていただいて40年を迎えられたことを幸せに思い、感謝しています。(取材・文/波多野公美)