このところ、年末の舞台本番に向けて稽古の日々を送っています。僕が演じるのは新聞記者の役。その役作りのために先日、朝日新聞の編集局を訪れました。記者の仕事や新聞が刷り上がるまでの流れを見学しつつ、ふと僕の目に留まったのが、文化部のあるデスクの上に置かれていたこの「漫画みたいな恋ください」。漫画でもなく小説でもない形で赤裸々な日常を記した今作、それは胸の中に重く響くものでした。
著者は、鳥飼茜さん。いま注目の漫画家さんです。彼女が描くのは、人の内面、そして理解と無理解。その繊細な描き方に心を揺さぶられます。たとえば性の暴力という深刻な題材を扱った「先生の白い嘘」、それから女の子の等身大の成長物語「おんなのいえ」(共に講談社)。「地獄のガールフレンド」(祥伝社)では、境遇や立場の異なる女性3人が、女性なら誰もが頷くであろう悩みを代弁していきます。
彼女の作品の奥底に、通奏低音のように流れているのは、自身が抱いている疑問や悩み。それを、まるで自身を切り裂きその血で描くものを見せられているような、ヒリヒリした感情です。「どうしてこんな世界がつくれるんだろう」。その疑問はこの本を読んで解けました。
これは彼女自身の日記です。2018年4月から7月にかけて彼女の身に起きた、彼氏との確執、息子との衝突、親との微妙な距離感、そして漫画家としての苦悩――。
鳥飼さんの紡ぐ漫画や文章には、一コマ、ひとつひとつの言葉、すべて極めて「理詰め」で組み立てられているような印象を抱くのです。思わず「これ、どんな意味があるんだろう」って立ち止まって考えてしまう。画や言葉の裏に、訴えかけたいメッセージの存在を強く感じるんですね。
今作を読んで感じるのはひとことで言うと、「生っぽい」。男性に対する好意と嫌悪、強い自己承認欲求。そして、彼女の自己肯定感の低さ。これまでの漫画作品の登場人物たちが、ぶち当たってきた壁、抱えてきた悩みの数々は、じつは鳥飼さん自身のなかに種としてあったものから、芽が出て実をつけたものなのかも知れない。
普段、なかなか見ることのできない作家の内なる悩み、実際の生活、そして登場する彼氏は誰もが知る漫画家さんです。その生活の一部が垣間見えて、でも手放しで「面白かった」とはなかなか言い切れない。鳥飼さん自身、幼少の頃から自分と社会と対峙し、考察を重ね、自己否定をしたり乗り越えたりということを繰り返してきたのでしょう。それがこの一冊によく現れています。
とりわけ、彼氏に対するコンプレックス。認めつつ憧れつつ、でもどこかライバルで、負けたくない思いを抱く。同業者としてのジェラシー。つねに彼女にとっての自己の「思考の始点」が彼氏なんですね。こんな一節があります。
「多分私は、この人に尊敬されたかった。付き合ってからずっと。何かひとつでも多く。ギターを弾いた、ピアノをたくさん弾いた、英会話に通い詰めた、車の免許を取った。この人に褒めてほしかった、それだけだった」(「2018年6月22日」から)
毎週土曜日、彼氏のところに行く。いつも彼が朝ご飯をコンビニで買ってきてくれる。私と揉めた後は、彼がやんわり譲歩してくれる。自分が「主」ではなく、どこかで強く彼氏に依存しているところがあるように思えます。それが良い、悪いというのではなく。
鳥飼さんは一見とても理論的なのですが、そのしっかりとした理論の根底には自身でも制御できない感情が蠢いている。だから、彼女が相手に求めている「答え」は、理論的な答えのようでそうではなく、理論、理屈を超えた感情、感性。そんな気がするんです。なんだか抽象的な言い方になってしまいましたが……。
彼氏とのいさかいを記したある日記には、具体的な出来事があまり記されていません。「何か」が起きてしまった後の内省的な心理描写ばかりを紡ぐ。そしていきなり注釈もなくフラッシュバックしたりする。読者はそれらを断片的に読み進め「ああ、もしかしたら、こういうことがあったのかな」と想像するしかありません。
女性が男性と対等ではない。女性というだけで受け身。鳥飼さんとしては、そういう状態から解放されたい思いを常に持ち続けているのかも知れない。「先生の白い嘘」を読めば、尚更そう感じます。男女の性差という問題について、論理の枝葉を伸ばし、構築を続ける。そこには、男である僕もただ単に「いや違うよ」とは言い切れない、もしかしたら平等を超えた答えがあるのではないかと感じるのです。
鳥飼さんには、彼氏とは別の男性との間にできた小学生の子どもがいます。その子どもは、別居している父母の間で、数日おきに生活の場を移します。鳥飼さんは「5月5日に、彼氏と揉めた」というエピソードを綴りますが、僕は最初、「そんなことより、『こどもの日』に何で、我が子と一緒にいないの」という疑問が強かった。もちろん、毎年の分担が3人の間で存在し、たまたま今年は父親側が面倒を見ただけなのかも知れない。ただ、その説明や背景が日記の中には一切描かれない。だから、ドキッとする。
学校の運動会に対する彼女の鬱屈した思いにも驚かされます。運動が苦手な我が子を見て、運動が得意な人だけがヒーローになれる、自分も小さい頃から厭だったと綴る。子どもに「お母さんは運動会で自分の組が勝ったことある?」と問われ「覚えていないし自分の組が勝ってもお母さんが勝ったわけじゃないから」と。運動が苦手な自分に似てしまった子どもに申し訳ないと思いながら、その子を見て自分の嫌な思い出が蘇ってきてしまうんですね。子どもに対する迷いや期待。そして母親としての悩み。
漫画を描く、つまり新たな「もの」を生み出す。その行為自体が、彼女の人生にいろいろな影響を与えているのでしょう。今作から、彼女が子どもに求めているものは、迷惑を掛けない、遅刻しない、忘れ物しない、約束を守る。いわば自立を求めているように感じます。それは親として普通のことなのですが、それが自分を邪魔しないためのようにも感じる。
そうして母親を「演じなければならないのか」を悩む鳥飼さん。わかります。僕にもどこか「演じる」ところがある。仕事では役者、子どもの前では父親、妻と2人の時には夫、そして親の前では子を演じている。無意識のうちにスイッチを切り替えるんです。でも、どうやら鳥飼さんは、それを器用にこなせないみたいです。子どもに対して必死に自己をコントロールしようと悩むさまに、同じ親として強く共感します。
子どもにギュッと抱きつかれた瞬間。どんな時でも親は「ありがとう、嬉しい」と感じなければ失格なのか。じつは僕は「そんなことはない」と思う。体調や機嫌が悪い時、どうしたって受け容れられない自分があっても、ときとして仕方ないと思います。
でも、それを赤裸々に描く鳥飼さんはとても正直で透明だ。
どんなに追い詰められた夜にも、ありのままに、我が身を中心とした半径数十メートルの世界を、それこそ我が身を削った血で描き上げていく。果てない逡巡、そして……。本を読み終えたら「帯」を取り、その裏面をご覧ください。彼女と彼氏がたどり着いた、ある決断について、最後の最後に綴られています。(構成・加賀直樹)