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赤裸々な実感 小説家・磯﨑憲一郎

横尾忠則 想い出劇場 2007年 西村画廊蔵

誠実に記録し、同調を拒む

 今から四十八年前の一九七〇年十一月二十五日、三島由紀夫は自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺した。金井美恵子はエッセイ「首の行方、あるいは……」(文学界十二月号)の中で、「日本のみならず世界に大きな衝撃を与え、文学や思想とはほぼ縁のないものも含めてあらゆる雑誌メディアが三島の特集を組んだほどの事件」がこの年に起きたことを、たまたま仕事上の必要から古い文芸誌の目次を見るまで「すっかり忘れていた」自分に驚きつつも、それは「三島由紀夫という作家にたいして関心を持っていなかったからだ」と端的に述べた上で、そこから不意に思い出された、それを読んだときには「一瞬目まいがするような気分に襲われ」たという、大江健三郎による短い文章を引用している。
 三島の自決後十年ほど経ってから、大江は米国人女性の日本文学研究者からインタビューを受ける、三島の鍛え上げられた隆々とした筋肉が、彼女に「大男の印象をあたえている」ことに気づいた大江がそれを正そうと、「いや、むしろ小柄な人で」と口を開いたのに続けて、その場に同席していた、知的障害のある息子の光はこう発言してしまう。「本当に背の低い人でしたよ、これくらいの人間でした!」。光は片手を差し出し、床から三十センチほどの高さを水平に動かしていた、事件当日の夕刊に掲載されていた、市ケ谷駐屯地総監室の床に直立している「生首」の写真が、幼児の記憶に確かに刻まれていた……そのことを知った大江は「驚きと嫌悪のまじっている思い」に打たれる。

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 ここに書かれているのはいずれも、二人の作家の、三島自決に纏(まつ)わるごく個人的な出来事と、赤裸々ともいえる実感に過ぎない。しかしその、赤裸々な実感を敢(あ)えて書くという毅然(きぜん)とした態度から、その時代を象徴するような大きな事件や事故、災害に遭遇したときに、思考の均質化を強いる社会的な文脈に安易に自らを同化、同調させてはならないという忠告を読み取ることも可能なように思う。そうした安易さは当事者に対して非礼であるだけではなく、「今ほど○○な時代はない」という言説に常に付き纏(まと)う傲慢(ごうまん)さ、自己中心性、センチメンタリズムとも同根なのだ。そして小説家とは、そうした安易さから最も距離を置くべき表現者であることはいうまでもない。

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 坂口恭平『建設現場』(みすず書房)の主人公は、どことも知れぬ建設現場で肉体労働に従事している、現場では定期的に崩壊が発生し、一向に工事が進む気配は感じられない、にも拘(かか)わらず、この現場にはトラックに乗せられて労働者が毎日送り込まれてくる、労働者はそれぞれ異なる言語を話し、片言の会話しか成立しない、主人公は現場監督のような仕事を任せられるが、一緒に働く労働者たちの名前を覚えられないのみならず、自分はどこに住んでいたのか、どのようにしてここにやって来たのかさえも思い出せない。
 この作品は、作者の熊本地震の経験が生かされていることは間違いないし、作者自身が語っている通り、病者である自らを救済するために書かれたというのも事実なのだろう。しかしその病者の視線で凝視されることによって、目の前の現実は、社会的文脈に覆い隠されていた新たな断層を露(あら)わにする。「わたしは感情を計測する機械になっていた。なぜ、その役目がわたしなのかと思ってしまったくらい、わたしは感情を受け取る自分の能力に対して、独自のものを感じていた。人間ではないような気がした」。こういった文章からはベケットの『モロイ』にも似た、生々しい感触が伝わってくるが、そんなこととは関係なく、紛れもなくこの作品には我々の生きる現代が描かれている。LGBTに関する議論も、ヘイトスピーチの問題も、人工知能も政治家も登場しないが、この作品は現代を生き抜いた者の誠実な記録であると同時に、未来への警告でもあるのだ。
=朝日新聞2018年11月28日掲載