私が編集に携わった「日本の名随筆」は最初の百巻が「花」「釣(つり)」「病」といった漢字1文字、続く百巻は「囲碁」「珈琲(コーヒー)」「俳句」といった2文字のテーマに沿った随筆のアンソロジー集で、最終巻が新約聖書学者の田川建三編『聖書』である。
その見本を田川さんに届けた折、「新約聖書」を訳してみませんかと投げかけた。その時は、そんな時間はないとけんもほろろに断られたのだが、数年後に田川さんから手紙をいただいた。新約聖書の翻訳を出したいという気はまだあるか、と。伺えば、かねて懸案の「新約聖書概論」を書くに際し、既存の新約聖書の翻訳は問題が多く、いちいちそれを指摘していたら一向に前へ進めない。ならば自分で訳した方が早かろう、とのこと。
というわけで始まったのが『新約聖書 訳と註(ちゅう)』全7巻全8冊だ。いずれの巻にも厖大(ぼうだい)な註が付され、既存の日本語訳聖書における誤訳、見落とされた視点なども事細かに指摘。文献もギリシャ語、ラテン語、英仏独語と多岐にわたる。となれば、浅学の編集者にできることは、ただ原稿があがるのを待つのみ。
一昨年、全巻完結し、本文訳のみをまとめたのが『新約聖書 本文の訳』だ。この大仕事が一段落し、田川さんは今「新約聖書概論」にとりかかっている。そこで田川さんから「俺より先に死ぬなよ」と。「つくる」のではなく、待つことも編集者の大事な仕事と肝に銘じている。=朝日新聞2019年4月10日掲載
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