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歴史を総括する前に 襞状の時間、結び合う出来事

メキシコの時間記念碑(©渋谷敦志) 「円形時計、航海用の天体観測器、日時計、アステカ暦などが同居。人類は時間という観念に取り憑(つ)かれてきた動物だった」(今福龍太)

 改元をきっかけに一時代が終わり、新しい時代がやってくるかのように、人々は何かの終焉(しゅうえん)と何かの始まりを語りたがっている。「歴史の総括」。だがこうした強迫観念とでもいうべき現象は、私たちが日々過ぎ去る時や年月に押し流され、自らの歴史的な位置を見失っていることと深い関係がある。

現状追認へ批判

 歴史とはたんに直線状に流れる時間の経過ではない。日常の惰性的な連続性を疑うことなく生きながら、真に歴史的な批判意識を持つことは不可能なのだ。一方で国家は「時代遅れ」や「進歩」を連呼しながら、表層の時間や暦を国民の統合と支配のために利用しつづける。

 予言的な思想家としていまこそ読まれるべきヴァルター・ベンヤミンの遺稿『歴史の概念について』は、危機をはらむ時代状況のなかで私たちの「歴史意識」を深めるために不可欠の書物である。そこには「歴史の連続体を爆砕しよう」という過激な表現も登場し、過去から未来へと不可逆的に時間が経過してゆくことを自明として現状追認的な歴史を漫然と生きることへの厳しい批判が語られている。

 のっぺりとした直線状の時間をいくら切り分けても真の歴史は見えてこない。危機のなかで歴史を受けとめるとは、特定の日や出来事が「低速度撮影機(クイックモーションカメラ)」のように、時計の時間に逆らって過去と現在を啓示的に結び合わせるときの閃(ひらめ)くような直感のことである。アメリカの悲劇として国家的追悼の記念日にされた九・一一(二〇〇一年)の出来事が、チリの民衆革命がアメリカの介入による軍事的暴力によって押し潰されたもう一つの九・一一(一九七三年)の暗示的な反響であったこと。核ホロコーストとしての八・六(広島)や八・九(長崎)が、三・一一(福島)の災禍と深層において触れ合っていること。歴史とは、織られた布の絵柄が襞(ひだ)状にたくし上げられ、思いがけない柄と柄が接触するような、そんなかたちで過去、現在、未来を貫いているのだ。

未来が裁く現在

 現在を物差しにして短絡的に未来を予測し、その先取りされた幻影の下に現在を消費的に生きる人間の時間意識に対し、いちはやく警鐘を鳴らしたのが安部公房の『第四間氷期』である。いまから六〇年も前に書かれたこの寓意(ぐうい)的小説は、「予言機械」(それ自体まさにAIの先駆的な予言!)によって見通された自分自身の未来に翻弄(ほんろう)される主人公を描いて、日常的連続性への依存を厳しく批判する。未来とは現在から導き出せる予測ではなく、「いま」と徹底的に断絶する不穏なモノの到来であり、その未来こそが現在を裁くのだ。私たちの描く未来像によって私たちの現在は裁かれている――未来を描く楽天的な技術信仰が社会を覆い尽くすいま、刺激的に響く思想である。

 この小説の傍らに、経過する「時間」という思い込みを根底的・哲学的に問い直したボルヘスの短篇(たんぺん)集『続審問』を置いてみよう。ボルヘスはここで、現在が過去を創りだし、未来が過去を修正するのだ、と書く。カフカの登場によって、その先駆者であった作家たちの存在が過去に遡(さかのぼ)ってはじめて発見された。ここにこそ、文学精神の深い歴史的必然がある、と。

 読書界でも「平成」を一つのくくりにして本を総括しようとする動きがあった。だが書物の歴史とは作家や作品の年表(クロノロジー)のなかにはない。それは書物という精神の歴史のことであり、それはまさに回帰的・予言的な時間性、すなわちベンヤミンがいうような、たくし上げられた襞状の時間のなかで生起するものなのだ。そこでは、いかなる書き手も、無限に連続する言葉の歴史を体現する、文字という精神の控えめな書記にすぎない。=朝日新聞2019年4月20日掲載