私がまだ就学前だった1950年代の終わりごろ、二つ違いの弟と父母の家族四人で毎週末、六甲山や摩耶山にハイキングに行った。そのとき持ってゆくお弁当はいつも中身が決まっていて、おにぎり、卵焼き、牛肉大和煮の缶詰かコンビーフの缶詰、そしてごく細い千切りにしたキャベツの塩もみにマヨネーズだった。行楽弁当と呼ぶには手抜きの、家族だけのごく簡単なお昼、といったところだろうか。
母としては、毎週末のことだし、冷凍食品もない時代にそれほど手間ひまをかけられなかったに違いないが、それでもずっと同じ中身が続いたのは、家族がそれなりに気に入っていたということでもある。そう、私の舌が覚えている限りでは、とても美味(おい)しかったのだ。とくにコンビーフと塩もみキャベツとマヨネーズの組み合わせが。いや、そこに甘い卵焼きと香ばしい摺(す)りごまの塩にぎりを加えた全部が、口のなかで一つになったときが。
ハイキングでお腹(なか)をすかせた子どもにとってはおにぎりだけでご馳走(ちそう)だが、シンプルな塩にぎりに、マヨネーズであえたコンビーフとキャベツを合わせたB級の美味は、私のもう一つの舌の原点になったかもしれない。基本的に素材そのままのシンプルな味で育った舌にとって、マヨネーズはいわば駄菓子のような誘惑の味で、コンビーフはもちろん、ゆで卵や芽キャベツの上に搾り出すだけで、子どもにとって完全無欠の一皿が完成する。
コンビーフはジャガイモと炒めたり、マッシュポテトと重ねてシェパーズパイ風にしたりもするが、それでも個人的にはマヨネーズで食べるのが一番だと思うのは、やはり私の美味が家族の思い出とともにあるせいだろう。
それにしても、最近あまりコンビーフを食べなくなった。昔に比べてハムやソーセージの種類が豊富になり、製造方法も味も本格的になったいま、缶詰の肉の魅力が薄れたこともあるだろうし、個人的にはあの白い脂の塊におじけづく年齢になったこともあるかもしれない。
それでも、百貨店やスーパーの売り場の前でいまも知らぬ間に足を止めていることがある。世間の中高年と同じく、塩分や動物性脂肪に気をつけるようになった昨今、もうコンビーフを食べようとは思わないが、あの独特のかたちの缶詰を見ると、この舌が覚えている幸福な記憶がしばし湧き出し、私の心身を満たしてゆくのだ。六甲山の草と土の匂い。日差しの下に広げたビニールシート。父がコンビーフの缶詰の巻き取り鍵をくるくる回して蓋(ふた)を開けてゆき、母が塩もみキャベツの上にマヨネーズをこんもりと搾る、あの仕合わせな時間。ああ、お弁当をもってハイキングに行きたくなってきた。=朝日新聞2019年4月20日掲載
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