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時代を見送る 家族の肩越しからのまなざし 哲学者・鷲田清一さん

昭和天皇が逝去し、記帳に訪れた人たちで埋めつくされた皇居前広場=1989年1月7日

 たぶん私だけではないと思うが、3・11の大震災も9・11のテロも、その年号は西暦で言えても平成ではすぐに言えない。「昭和」と「平成」。二つの年号の感触の違いはどこから来るのか。「平成」という時代を見送るにあたり一つ前、かつて「昭和」を見送った三つのまなざしをまずは思い起こしたい。
 内田樹の『昭和のエートス』に収められた同名の論考は、彼の書きものではめずらしく鉛のような鈍い重みを感じさせる。内田は、「明治人」「昭和人」を、その期間に生まれ活動した人一般ではなく、その時代が内包する深い「断絶」を生きた人というふうに見る。断絶とは「維新」の、そして「敗戦」の前と後である。断絶を受容せざるをえない現実と、受容しがたいという思いとの相克に、「半身から血を滴らせながら」向きあい続けた人たちである。政治家でも作家でも庶民でも、そういう「集団的なトラウマ」を心の奥に内面化した人たちがいた。
 そういう先行世代の葛藤にじかにふれた「最後の証人」として、内田は自分たち戦後第一世代はあるという。そして、「昭和人」のその息の根を止めることに加担してしまったことの「いたたまれなさ」こそ、逆説的にも「昭和人」の遺産として引き継いだものなのだと。

目そらせぬ水脈

 戦中、植民地だった済州島で「皇国少年」として日本語で暮らし、戦後(いいかえれば解放後)まもなく、「四・三事件」の争乱のなか日本へと脱出した詩人の金時鐘もまた、『クレメンタインの歌』で「父」の肩越しに一つの時代を語りだす。
 植民地統治の圧制下でも朝鮮語と朝鮮服で通した彼の父は、日本語の本や新聞を取り寄せて読む人であったが、家族内では断固として日本語を口にしなかった。みずからの感情の糸を日本語で紡ぐ息子に対する父の沈黙を、さらに「ひとりっ子の安全を恨み多い日本に託さねばならなかった」父の心持ちを思い起こすごとに、金は身をよじる。自分はその両親の思いを「食いものにした」ことで生き延びたと。幼い頃に父がたった一つ残してくれた「生理の言葉」がある。「クレメンタインの歌」。それはじつは朝鮮語の訳詞で歌われるアメリカ民謡だった。その事実の内にこそ、亡き両親への、そして人類同胞への「祈りの核」があるという。
 明治も昭和も〈外〉へとその存在を侵蝕(しんしょく)させていった。その侵略の中で起こったこと、〈連行〉と〈在日〉もまた、「昭和」の、目をそらすことのできぬもう一つの水脈である。

生活史との交点

 自身の一族を襲った運命を忍ばせつつ、〈象徴〉としての天皇のふるまいの肩越しに「昭和」を送ろうとしたのが、中井久夫の『「昭和」を送る』だ。
 「自我以前に天皇あるいは戦争とかかわった者には、『だまされていた』と怒る先行世代よりも深い傷がある」とし、旧満州で集団の自衛のため「遺棄と拾い上げの繰り返し」に晒(さら)された嬰児(えいじ)たちのその後に思いをはせたあと、中井は天皇制について思いがけない視点を導き出す。「天皇が成年期の皇太子を持たず、孤独である時が戦争多発の時であった」。そして発展よりも「存続」を上位に置く、そういう見解を「自然的に持つ存在」には、家族の存在がことのほか大きな意味をもつと。だから戦後、責任はあれど自由裁量の余地はないその苦渋の中、天皇は自らの意志を「歌」で、皇太子は「質問」で表したとも。
 ここに引いた三作は、世代・在日・天皇と文脈は異なれど、歴史と一人ひとりの生活史の交点に照準を合わせ、しかも歴史を家族の肩越しに見届けるというところで一本の糸としてつながる。だから「平成」を送るにも今しばらく時間を要する。=朝日新聞2019年5月4日掲載