開高健の『地球はガラスのふちを回る』(新潮文庫)を再読した。世界を遍歴してきた開高さんによる、酒・食・釣・旅のエッセイ集だ。読んだことがある人は分かってもらえると思うが、彼の文章はとても人間味があって、芳醇な香りがする。一緒にウイスキーを飲みながら、見聞きしたい話ばかりが載っていて、一気に読むと胃もたれを起こしそうだが、一度読んだらクセになり、何度も何度も読みたくなるはずだ。
『地球は〜』の中に収録されている「旅は男の船であり、港である」に、こんな文章がある。
固有の、ある別のものと衝突できる快感がある。抵抗感覚の快感がある。ぐずぐずとなし崩しに暮らしている日ごろの生活にない、新鮮な衝突感が味わえるんだ。旅の魅力は、ここだよ。(272ページ)
確かに、世界は狭くなった。情報も氾濫している。どこへも簡単に行けるし、日本の片隅でも世界のことがわかるような気もする。(略)心はうつろなまま文化と出会えないまま、そういう旅をしてしまう危険は逆に多くなった。これは、だめ。いかんな。新鮮な驚きが生まれてこないもの。驚く心がなかったら、旅の意味はほとんどないものね。別種の文化と接することとは、驚くことなんだ。驚く心、見る目を持ちなさい。少年の心で、大人の財布で歩きなさい。(272-273ページ)
40年ほど前に書かれた話なのに、なぜか心に響く。私がこの文章を読んで思い出したのがインドの旅だった。二十歳そこそこの時に訪れたインド。当時から界隈では“バックパッカーの聖地”とも呼ばれていたが、振り返ってみても、これまでで最も過酷で大きなショックを感じた旅だった。
「インドに行けば、旅人としてのレベルが上がる」と信じていた純粋無垢な当時の私。mixi(日記や写真などをクローズドなメンバーで共有するSNS。今でもあるサービスだが、当時はみんなが使っていた)で一緒に旅するメンバーを募集し、集まった中高の女友達と、予備校の女友達と、女3人で旅することにした。2人は初対面だったので、ちょっと不思議な構成だった。
確かにタージ・マハルは美しかったし、念願のサリーを着ることもできたし、本場のカレーもおいしかったのだけれど、そんなことどうでもいいぐらい、私は現地の生のエネルギーに気圧されていた。何しろ、どこに行っても人がいるのだ。昼も夜も関係なく、路上には人人人。「ワンダラー(1$)」とせびる子どもの群れ、猿を自慢気に見せて金を求めるおじいさん。ガンジス川で沐浴する人。ヒンドゥー教で神聖な生き物とされる牛も闊歩しているし。「日ごろの生活にない、新鮮な衝突感」をビシビシ感じた。
衛生面での心配があったので、水も生野菜も細心の注意を払って過ごしていたのだが、結局、ホテルのレモネードに入っていた氷にあたった。数時間後に体調が急変し、身体の穴という穴から、ドブ色をした液体が流れ出るようになった。就寝前のホテルだったからまだ良かったが、冗談ではなく「死ぬのかな」と思った。翌最終日、あまりに具合が悪いので、友人2人とガイドで観光してもらって、私は1人で車で寝ていた。記憶にあるのは、蒸し暑い車内でだらだらと汗をかきながら、「もう2度とインドに来るもんか」と思っていたことぐらいだ。
それから喧嘩別れのように去ったインドへには行っていない。けれど一方で、ふと思い出すのはこのインドの旅で、世界中どこを旅をしていても、あの時以上の衝撃を感じなくなってしまった気もする。「驚く心がなかったら、旅の意味はほとんどないものね」。開高さんの言葉が沁みる。退屈なのは、世界か、自分か。そう自分に問いかけてみる。