暗がりでラブコールを受けて変わったニナガワ像
──蜷川さんとの出会いを振り返っていただけますか。
2013年8月に上演した「cocoon」をご覧いただいて、初めて挨拶しました。その後、同じ年の10月に蜷川さんが演出した「唐版 滝の白糸」のパンフレットで対談して。その時から蜷川さんが会うたびに、暗がりへ僕を連れて行って「書いてくれませんか?」って。
──暗がりでラブコールを受けたんですね(笑)! 蜷川さんの第一印象を教えてください。
「蜷川幸雄」って名前から受ける、“世界のニナガワ”や“巨匠”みたいなイメージとは別の印象を覚えました。すごい低姿勢で、どこにでもいる70代男性って感じがしたんです。だから戯曲の執筆をお願いされるたびに、フィクションではなく「蜷川さん自身の話を書きたい」という思いが膨らんでいきました。
──蜷川さんのどんな側面を書いてみたいと思われたんでしょう?
蜷川さんは自分の言葉でフィクションを立ち上げる作家じゃなくて、“誰かの言葉”を使って演出されてきた方。そんな人がどうやって演劇と向き合ってきたのか、演劇以外にどんなことを考えていたのか……すごく気になりました。
作家は自分の日常と切り離された世界を描くから、どこかフワついた人間が多い。でも蜷川さんは“現実”を身にまとっているなぁ、って。生活やご自身の実感をもとに戯曲を読んで、演出のアイディアをつくっているんじゃないかな、と。それを見つめてみたかったんです。
──藤田さんはご自身でも戯曲を書かれるので、そういう意味では蜷川さんを「自分とは異なる」と感じていた、ということでしょうか? 蜷川さんは藤田さんを「俺と同じ種族だ」とおっしゃっていたようですが。
異質というより「職業が違う」と思っていました。蜷川さんもある時に「藤田さんは書くし演出もするわけだから、僕より武器が多いよね」とおっしゃっていたし。
「同じ種族」の意図するところは今となっては分からないけど、いちばん覚えているのは、僕の作品を観た感想で「稽古場が目に浮かんだ」みたいなことを言っていたんですよ。
──書籍に収録されている対談で、「cocoon」をご覧になった蜷川さんが「稽古場でかなり俳優を怒鳴ったでしょ?」と指摘されていらっしゃいますよね?
はい。「舞台のコーナーを走るこのシーンで、相当叱っただろうな」と想像してくださって。実際に当たっていたし、いちばん苦労して気を遣っているところだったから「内容より作品に対する姿勢を見てくださったんだな」とうれしくなりました。
あとは……かなり“孤独”を感じている人だったので、そこにも共感します。
──お二人が抱えている孤独って?
「誰にも相談できない」というか。悩みを誰かと共有できずに過ごした時間が長いんだろうな、と思いました。この本にも書いてある、「俳優と飲みに行けない」もそれを表すエピソードなんじゃないかな。
──藤田さんも俳優と飲みに行かないんですか?
そうですね、「飲みに行けない」というより「俳優と僕(演出家)は仕事が違う」って感じ。飲みの席で話すことなんて、ほとんどないんですよね。それと同じことを、どこかで蜷川さんも感じてらした気がする。
そういう俳優と演出家の関係というか違いのようなものを、わりと初期のころから蜷川さんとは話していましたね。
──この本を拝読して感じた藤田さんの蜷川さんに対するフランクさって、そんな点から来ているんですね。
演出家同士って……もちろん蜷川さんと僕ってつくっている作品の趣向も美意識も違うと思うんですけど。(蜷川さんは)RadioheadとかBattlesとか音楽も若い人が好むものを聞いていたんですよ。蜷川さんの部屋にはそういうCDとか本がたくさんありました。意識してきちんとアンテナを張っていた。50歳も年が離れているとは思えないほど、“友だち”みたいでした。
タイトルに込めたのは蜷川さんの「やわらかさ」
──蜷川さんに依頼され、藤田さんは「蜷川さんの半生を戯曲にしたい」と交換日記で申し出ました。その後、「タイトルが『蜷の綿』に決まってうれしい」と蜷川さんが綴っていましたが、題名の由来は?
もともと、「蜷の腸(みなのわた)」って和歌の枕詞があるんですよ。コットン(綿)じゃなくて、はらわた(腸)。巻貝の中身を引っこ抜くと黒い内臓が出てくるじゃないですか。それを「蜷の腸」というんですけど、やわらかい「綿」にしてみようと思いついて。
──コットンの「綿」に変えようと考えた理由は?
(蜷川さんは)「灰皿投げる」とか、厳しい一面だけが取り沙汰されがちだけれど、でも取材を通じて、厳しいだけじゃない「普通の感覚を持った人」と感じることが多くて。それに意外と「やわらかい」とも思ったんです。フェミニンなところもある方で。
──インタビューでも、幼い頃に女の子と塗り絵をしていたエピソードを引き出していらっしゃいましたね。
そう。その何とも言えない「やわらかさ」を表現したいと思って、コットン(綿)に例えてみました。硬い巻貝(蜷)の外側から見られている、一元的な蜷川さんのイメージを変えたかったんです。
──蜷川さんもご覧になった、ご自身の演出作である「cocoon」の“綿”に絡めているところはあります?
それも意識しましたね。繭から出てくる繊維みたいなものを想像して。
──『蜷の綿』のセリフに、蜷川さんが「俺の“腸”を全部見せてやれ」とありましたが、これもタイトルに関係していますか?
胃潰瘍に心筋梗塞、脳梗塞を患っていて、体のいろんなところを悪くしている人だったから……エッセイでは内臓について話題に挙げることも多かったし、ご自身も意識していたと思うんですよ。
美しいガラスや美少年とか外見にこだわることも好きだけど、蜷川さんが作品の中で追求していたことは皮を引き剥がした内面的な部分でした。結局、役者を追い込んで取り出そうとしているのは“中身”だったんですよね。そういう意味でも、内側を取り出そうとしている蜷川さんの、さらに“内側”を扱いたいと思ったんです。
インタビューで気をつけていたのは、蜷川さんが「その時に何を思っていたか」「どんな気持ちでいたか」を聞き出すことでした。彼の人生をたどったら日本の演劇史になるけれど、それは本を読めば分かること。少しでも内面に近づけたら、と考えながら取材を重ねていましたね。
世界のニナガワも「普通に生きた人」
──交換日記・対談・インタビューを通じていろんなエピソードが飛び出してきたと思いますが、藤田さんの中で特に印象に残っているものは?
蜷川さんが「命は有限だとやっと知った」と言った時がありました。
2014年11月に、蜷川さんは香港で倒れて。さいたまゴールド・シアターが「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」を上演するというので、僕らも観に行ったんです。緊急入院して劇場入りすることはなく、ジェット機をチャーターして帰国されたんだったかな。でも年末には復帰して、藤原竜也さんが主演する「ハムレット」の稽古場にいた。
──すぐ回復したように聞こえますけどね。
稽古の休憩を見計らって挨拶しに行った5分くらいの間に「自分はまだ生きると思っていた」みたいな話が唐突に始まって。香港から帰国して「これまで無限だと思っていた命が、有限だと知った」って言うんですよ。その時に「演出してほしい」って強く思いましたね、どうか「蜷の綿」を。
──「蜷の綿」を書き進める手にいっそう力のこもった一瞬だったと思いますが、戯曲には藤田さんのどんな思いが込められていますか?
演劇関係じゃない人にも読んでもらいたいですね。80歳で亡くなった、ただの男の話のような気もするんですよ。「世界のニナガワの半生を書きました」だけではない。
地元の川口を抜け出し、エリートとして進学した開成高校を落第しているとか、劇団を潰してしまっているとか、蜷川さんはいろんな挫折を経験しています。その原因が演劇にあったというだけで、こうした挫折はたぶん誰にでも起こり得ること。これって一般社会にも言えることだよな、というのが話していて伝わってきて。だから僕は、蜷川さんは“ただの一人の男”だった気がしています。偉大な功績を残した方ですけど「すごい人」ってだけじゃなくて「普通に生きた人」なんだよ、と広く伝えたい。
──蜷川さんの持つ“やわらかさ”や万人が共感しうる普遍性など、「蜷の綿」は藤田さんならではの着眼点にあふれていますね。
作品の良し悪しって“必然性”にあるのかな、と考えるところがあって。出会う人やその時代・場所でしか書けないところに言葉がコミットできているのが、よい作品なんじゃないかな。
そういう意味で「蜷の綿」は、蜷川さんが亡くなったあとには書けなかった作品だと思うんですね。この戯曲やインタビューに流れている時間の中で、蜷川さんはまだ生きている。彼に演出されなかった……という点は悔しいですが、同時にこの作品の魅力でもある。つまり、ずっと“未完”なんです。
ラストも蜷川さんは“死”に向かいません。「まだつくりたい」と葛藤しているのが、この作品のよさ。だから僕は、その時にしか書けないものを書けた手ごたえを、戯曲をまとめた瞬間に感じていました。
──先ほどの「命は有限だとやっと知った」のエピソードも、戯曲に反映させましたよね。
そうですね。交換日記にもあるように「事件だ」と思って入れたけど、書かれた当時(過去)と戯曲が上演されるタイミング(現在)はどんどん離れてタイムラグが生じる。演劇が極めてリアルタイム性の高い芸術だからこそ、生じる矛盾というか。
──「蜷の綿」を執筆されていた当時は、蜷川さんが亡くなるとは思っていらっしゃなかった。
そうです。ただ……僕はこの「蜷の綿」が神話的になればいいと思っていて。というのもシェイクスピアがそうだったように、作品が繰り返し上演されることで、彼や彼が生きていた時代の空気は語り継がれていきます。この作品もそうなっていけばいいから、たとえ今すぐ評価されなくても、僕が死ぬあたりで「そういえばすごい台本があったよね?」って思い出してもらえたらうれしいです。
蜷川さんの“まなざし”を掘り下げたい
──今秋の「蜷の綿」はリーディング公演として上演されますが、ご自身では関連企画の別演目「まなざし」を上演されます。このタイミングで藤田さんが「蜷の綿」を演出しないのには、何か理由があるんでしょうか?
公演延期になってから3年ほど経ちますが、ずっと「僕が演出するのはふさわしくない」とお話ししてきました。
──どうしてですか? 藤田さんの演出を待ち望んでいる観客もいらっしゃると思います。
蜷川さんが演出する作品に、なんで僕が横入りするのか……って話なんですよね。そうなるのがイヤで。僕は蜷川さんの人生の、ラスト3年間にちょっと立ち入っただけの人間にすぎないから。
例えば(今回「蜷の綿」リーディング公演の演出を務める)蜷川さんの演出補だった井上尊晶さんとか、(蜷川さん主宰の劇団である)さいたまネクスト・シアターやさいたまゴールド・シアターの人たちの方が彼と長く一緒の時間を過ごしているわけだし、そういう人たちに任せていく方がこの作品にとっていい形なんじゃないかな。
それで「蜷の綿」に書かれていないことを、関連企画の「まなざし」として立ち上げようと考えました。
──確かに、インタビューで蜷川さんが話した内容が「蜷の綿」を読むと入っておらず……藤田さんがエピソードを取捨選択した跡みたいなものが見受けられました。「まなざし」はどんな作品になるんでしょう?
「蜷の綿」とクロスオーバーする部分があるかもしれません。でも基本的には戯曲でフィーチャーしなかったポイントを取り上げる作品になると思います。
『千のナイフ、千の目』ってエッセイがあるように、蜷川さんって「まなざし」という言葉をけっこう使っていて。客席に1,000人座っているとしたら、彼らは1,000本のナイフを持っている……と彼は考えていた。どんな演出が観客の「まなざし」に耐えうるのか、常に追求していたんです。
──ナイフを隠し持つ思いつめた観客に、刺されないような作品を。
そう。エッセイの中では「テンペスト」の時に、何から影響を受けてこういう演出になった……みたいな細かい話をしているんですよ。そういうことが、僕とも立ち話レベルでけっこうあって。例えば仏壇のエピソードとか。
──それは、「NINAGAWA・マクベス」のプロセニアム・アーチ(額縁舞台)のことですか?
はい。あれって「自宅の仏壇を開けた時に思いついたんだよ」とか。蜷川さんの演出意図やアイディア、着眼点……つまり「まなざし」って、まだ作品として掘り下げられていないな、と感じたんです。
──リーディング公演と一緒に「まなざし」を観たら、より蜷川さんの内面に近づけそうです。ちなみに、将来「蜷の綿」をご自身で演出したいという気持ちはおありですか?
ないですね。
──即答なんですね。個人的には藤田さん演出の「蜷の綿」を観たかった!
「蜷の綿」はいろんな人が演出すればいいと思っています。ただ単に、僕が「蜷川さんに演出してほしかった」ってだけなんですよ。
体調を悪くした蜷川さんが「できない」「延期してくれ」って言った日があったんですけど、その時間のままとどめておきたい。僕だけが演出するのは、彼との約束違反に思えてしまうんです。
誰が蜷川さんのやってきたことを続けるのか
──「蜷の綿」執筆のために蜷川さんと重ねた時間を振り返って、感じることは?
自分が蜷川さんと同じ年齢になった時、彼ほどの情熱をもって稽古場に行けるかどうか自信が無くなりました。演劇自体が、人に観に来てもらい続けるものであり続けるのかな……とも考えたら、どんどん不安になって。
──書籍の中でも「途方もない」とおっしゃっていましたね。
その不安って、未来が分からないことに起因するんだろうなって。僕らはこれから、蜷川さんがいない時間を生きていかなくてはいけない。その時に「誰が蜷川さんのやってきたことを維持するんだろう」ってことも考えました。
1,000~2,000人規模の大きな劇場がいたるところにある日本って、世界的に見て異常なんですよ。やむを得ずつくっちゃったんだと思うんですけど。
──ハコモノ行政ですね。
そう。で、「誰がそのホール埋めるの?」ってなるわけじゃないですか。そんなレベルの劇場がいっぱいある中で、大きい演目を回せる人ってあんまりいない気がして。
蜷川さんに取材を始めたのは、自分が「小指の思い出」で初めて芸劇(東京芸術劇場)プレイハウスを任されたタイミングだったんです。だから話を聞けば聞くほど、彼のやってきたことは全て演劇の世界に身を置いている自分たちに返ってくる話なんだと思って、けっこう恐ろしくなりました。怖かったですね。
──蜷川さんのバトンを受け継ごうというより、できるか不安になった?
そうですね。年を重ねたら、なおさら。体の自由がきかなくなっていく蜷川さんを見ていたら、自分に負荷がかかった状態でも作品を最優先できるかな?って。
彼の体には、ひとつひとつの作品やプロジェクトのプレッシャーがかかり続けていた。それでも劇場に来て、稽古して、時には怒鳴って……必死に“蜷川幸雄”を守ってきたんだと思うんです。プレッシャーの中でも自分を維持できるのが、本当にすごいと感じていました。
──それほど恐れるのは、蜷川さんのように大きな演目をご自身が手がける未来を想像したから?
うーん……今はまだ分からないですね。ただ、蜷川さんへの取材と大きな劇場を任されたタイミングが同じだったのはよかったです。
26歳で岸田(國士戯曲)賞をもらった時に、もらえるお金の額が単純に増えたんですよ。それは自分の収入ってわけじゃなくて、公演レベルでの。そのお金を何に使うか考える必要が出てきたし、オファーされる劇場の規模もプロジェクトもどんどん大きくなって、全国や海外をツアーで回らなければならなかった。そうなったのは、賞をもらったからということだけが理由ではないと思うけれど。
いま考えると、26歳であの状況というのは早かった気がしますね。
──そんな葛藤の中で出会った蜷川さんは、交換日記で「やせたって?」「“小指の思い出”うまくいっていますか」など藤田さんをよく心配していましたよね。
そうなんです。そのタイミングで蜷川さんは僕の作品を観て、気にかけてくださいました。稽古場にお邪魔すると「こういうところで怒るんだ」と発見があったし、シンプルに「この方向性でいいんだよ」と教えてくれていた気がして。よいタイミングで、その背中を見ていられたと思う。
──蜷川さんから受け取ったものは大きいですね。
はい。ただ、蜷川さんのやり方を踏襲するだけだったら、僕はそのレベルまでしか行けない。だからきっと彼とは違う道で、大きい規模の演劇を回せるようになればいいと思っています。