手玉と的玉の距離
何を考えているのかわからない男のひとが苦手だ。
たまに女優さんが「何を考えて入るのかわからない男性がタイプなんです」と微笑んでいるのを見ると、すごいな、と思う。
女優さんはモテるから優しい男性は刺激がなくてつまらないのだろうか。
「何を考えてるのかわからなくて不安なの」
と言いつつ、心のどこかで不安がりたいのかもしれない。
たとえば、居酒屋でも飲みものを積極的に聞いてくれる男性より、すこし離れた席でときどきふっと微笑む男。
でも、なにを考えてるかわからない男は、大概なにも考えていない男なのだ。
謎ぶるな。
今回ご紹介するマンガはそういう男とは正反対の、一途な男性が登場する河内遙先生の『涙雨とセレナーデ』だ。
明治40年にタイムスリップした女子高生・陽菜は、訳あって自分とそっくりな伯爵家のお嬢様・雛子と“とりかえばや”をする。本郷貿易の御曹司である本郷孝章は、ひたむきに雛子(真実は陽菜)を想っている。
明治時代の御曹司と現代の女子高生それぞれの言葉使いが味のある明治の風景に溶けこみ、読者は二人とおなじ馬車の乗客となりガラガラ感情を揺さぶられる。
タイトルそのままに、雨を纏うように美しい孝章様のお言葉がこちら。
閉ざされた貝に 一体どの様な お心変わりがおありになったか?
この方はいつも ご自分の涙を瞬く間にお塞き止めになる
幼い貴方の手の平は 蒸かしたての餅のようだったな と
一方、現代の若者っぽさが洒落ている陽菜のことばがこちら。
たーくんの片想いに八つ当たりしてどしどしつけ込んでしまった
この恋心は旅のお土産 壊さないようにそっと持ち帰ろ(この背景には貝殻の絵が!)
何その 夢のアガリと地獄の罰ゲームが同じマス目にある感じ
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さて、ここで質問。
下記ab、どちらの短歌に心惹かれますか?
a. 憎しみに無力なことは知っているそれでも朝のトースト香れ
b. 憎しみに無力なことは知っているそれでも今日の朝刊を見る
aは、私の師匠である加藤治郎先生の最新第十一歌集『混乱のひかり』から引いた短歌。
bは、aを元にわたしが考えた改悪短歌です。
意味としてはbの方がすんなり通るのに、なぜaに心惹かれるのでしょう。それは、“憎しみに無力”と“トースト香れ”のことばの距離が、ちょうどいい具合に離れているからです。
”憎しみに無力“と“朝刊を見る”は、ことばの距離が近すぎてつまらない。
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きのうテレビで見たビリヤードのトリックショット(見るものに強い興味や驚きを起こさせるような、事前に計画された配置によるショットのこと)にたとえると、aは“憎しみに無力”という手玉に当てる的玉を“トースト”にしたことで両方の球が美しくはじかれ合い、“トースト”がポケットして快感が生まれたのです。bは“朝刊”という的玉が“憎しみに無力”にゆる~く当たってその距離2センチ。“朝刊”はポケットせず心が動きません。
先に挙げた孝章様と陽菜のモノローグ、「閉ざされた貝、涙を塞き止める、手が蒸かしたての餅、片想いに八つ当たりしてどしどしつけ込む、恋心を旅のお土産にして壊さないよう持ち帰る、夢のアガリと地獄の罰ゲームが同じマス目に」は色とりどりの的玉であり、そのすべてが見事ポケットしています。
こちらは『涙雨とセレナーデ』4巻のあとがき。
漫画作業は、物理的にも技量的にもなかなか描きたいシーンに辿り着かず、悔し涙の水たまりで、ばしゃばしゃタップダンス決め込むのが常ですが このままでは仕事場が水浸しになって仕方ないので、今後はもっとしずしず踊れたらなあ と思います。
河内先生は言葉をビリヤードの球のように扱うのがお上手で、そのひとつきひとつきが次々ポケットしてゆくマシンガンショットのよう。
万華鏡のように幾度覗いても美しい発見のあるこの物語にどのような運命が待ち受けているのか様々思い巡らせつつ、令和二年の春(6巻の発売日)を待ち焦がれる私でございます。
最後に、陽菜の首飾りが決して出てこないことがわかったシーンをどうぞ。
わたしではないわたしのために泣くひとへひろがってゆく小夜曲よ、雨