ISBN: 9784152098887
発売⽇: 2019/10/17
サイズ: 20cm/289p
赤い髪の女 [著]オルハン・パムク
オルハン・パムクといえば、トルコを代表する熟練のノーベル賞作家で、評者である私が心酔してやまない小説の名手である。あまりに好き過ぎて、自分の『我々の恋愛』という長編に〝トルコの世界的恋愛詩人〟としてモデル的に登場してもらっているくらいだ。
そのパムクの新作が今回の『赤い髪の女』で、主人公ジェムが1980年代の子供時代を回想して始まる。ただし冒頭に「私は作家になりたかった」とあり、それは途中でも繰り返されるから、進む文章に常にかすかなメタ視線が入り込み、最後の最後に効く。
失踪した父を持つお坊ちゃんジェムは、当時まだ残っていた井戸掘りのアルバイトに励まざるを得なくなり、マフムト親方を慕いながら肉体労働を繰り返す。その様子は読者をとらえ、誰にでもある今はなき時代への追憶にひたらせてしまうだろう。
そうやってしばらくの間、おとぎ話のような掌編の組み合わせに見えた本作を前に、パムク愛好家の私でさえ「やはり作家は老いてくると懐旧の念にひたすらとらわれるのだな」と思わされた。ほんわかしたまま終わるのだな、と。
ところがしかし、町へ出て赤い髪の女にひと目惚れをしたジェムが親方に『オイディプス王』の父殺しの話をするエピソードが、やがて突然時間を飛んで青年になる彼へとつながり、東洋の『王書』の中の子殺しのテーマにからめた文学談義にもなりながら小説の質を変転させていってしまう。
ふと気づけば、赤い髪の女に恋をしていたジェムは、彼女との関係を忘れて賢い妻を持ち、事業を成功させている。新しいトルコの人材となった彼は、不動産に関わってイスタンブールの激動を体感する。前作『僕の違和感』では貧しい主人公がヨーグルトを売り歩く中で緻密に語られた都市の今昔が、今度は俯瞰で提示される。
と、驚くことにいつの間にか文のタッチが変わっている。一体どこで切り替えられたのか、読者は煙に巻かれるだろう。確かに少年だった頃のジェムでは青年時代は語れないし、それより上の年代となればなおさらだ。
しかもイラン空爆などがテキストの中にあらわれ、失踪した父が属していた政治組織の話などが出てくるに至っては、東西の歴史がそのまま小説に刻まれるわけで、日々親方が掘る井戸の脇にいた頃のジェムでは到底理解出来なかった国際政治までを、大人となった彼は語ることになる。
同時に、あの父殺しのテーマは重低音で作品内に潜み続け、やがて思いもよらない姿をとる。その時、我々はパムクがすらすらと書いていたはずの文がいかに複雑に計算されていたかに舌を巻く。
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Orhan Pamuk 1952年イスタンブール生まれ。作家。2006年にトルコで初めてノーベル文学賞受賞。『わたしの名は赤』で国際IMPACダブリン文学賞。著書に『雪』『無垢の博物館』など。本書は10作目の長編。