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母と猫とアイスクリーム 小池真理子

  何かを甘辛く煮つける時の香りが好きだ。たとえば夏の夕まぐれ、ヒグラシが鳴き、カボチャを煮つけるにおいが漂ってきたりすると、もういけない。瞬時にして六十年近い歳月を逆戻りし、私は七、八歳だったころに戻ってしまう。

 当時、暮らしていたのは東京都大田区の小さな社宅。家は庶民的な路地の中にあった。親たちは窓越しにおかずの交換をし、似たような年齢の子どもたちが日暮れまで遊んでいて、あたりはいつも賑(にぎ)やかだった。

 路地には「猫おばさん」と呼ばれる猫好きの婦人が住んでいた。おばさんは魚屋から魚のアラをたくさんもらってきては、周辺のノラ猫たちのために毎日、欠かさずそれを煮つけてやっていた。

 路地に漂う魚のにおいに大勢の猫がわらわらと集まって来た。煮つけた魚はとてもいいにおいがし、思わずご相伴にあずかりたくなる。おばさんに「味見させて」と頼み、少し食べさせてもらったことがあるが、味がしなくてあんまりおいしくなかった。

 私の母は北海道出身で、しょっぱいもの、甘いものが大好きだった。母の味付けはいつも濃いめで、それこそが母の味だった。

 老いるにつれて血圧が上がり、医者から塩分を控えよ、と厳命された。なんとか従っていたものの、何度注意しても母の味噌(みそ)汁はいつも濃かった。

 甘いもの好きも変わることがなく、認知症が始まったころには、毎晩、寝る前、風呂上がりに棒つきの、素朴な味のアイスクリームを一本食べるのを楽しみにしていた。

 入れ歯をはずした口でゆっくりおいしそうに舐(な)める。当時、母が飼っていた猫が、羨(うらや)ましそうに傍らでそれを眺めている。

 まだ少しクリームが残っている棒を母が「ほれ」と言いながら猫の鼻先に近づけてやる。猫がじゃりじゃりとそれを舐めるのを見届けると、母は満足げに布団にもぐりこんだ。

 先日、行きつけのスーパーで母が食べていたのと同じ、棒つきアイスクリームの入った箱を見つけた。懐かしさのあまり買ってきて、その晩、母をまね、風呂上がりに一本、食べた。

 ふと思い出し、うちの二匹の猫に食べ終えた後の棒を差し出してみたのだが、ちょっとにおいを嗅いだだけだった。

 毎晩、棒に残ったクリームを舐めさせてもらっていた猫は、母亡き後、妹夫妻に引き取られ、今、穏やかな老いの時を迎えている。=朝日新聞2020年1月4日掲載